一新の鼓動

こちらは、かなり以前から漠然とあった『王政復古の大号令で京へ向かおうとする江戸陸・江戸海と幕府側に残る大佐』のお話です。

一応15,000文字ほどあるので、お時間あるときにどうそ~☆誤字脱字、読みにくい、なんじゃそりゃ等々あるかと思いますが、椅子を寝床にw頑張って書いたので、少しでも楽しんでいただければ幸いです!! (おかしなところがあったら教えてくださいw)

▼ではスタート!▼




 慶応三年(1867年)。
 この年は、徳川治世の終末をひかえての激動一年であった。

 ペリーの黒船来航からわずか十四年。
 幕府は十月、「大政奉還」を行った。

 しかし朝廷は、征夷大将軍の辞職には難色を示したため、政権はそのまま旧幕府が維持している。

 朝廷には政治の経験者がいないのだから当然の結果であるが、大政奉還は徳川家の力を温存させ、新しい政治機構においても引き続き政治を担う可能性を大きくした。

 大政奉還はまさに『名を捨て実を取る』幕府側にとって最良の選択だった。

 しかし一方で、討幕派は、大政奉還によって倒すべき幕府がなくなり、焦りを募らせていた。徳川家を排除し、全く新しい政治機構を目指す彼らは巻き返しをはかるべく、大胆な行動に出るのである。


――同年十二月九日。


「この感覚は……なに……?」

 幕府陸軍の屯所で目覚めた陸は起き抜けに強い胸騒ぎを感じた。

 二ヶ月前の大政奉還から、張り詰めた緊張感が徐々に膨らんでいたが、今日はこれまでにないほどの大きな胸騒ぎだった。

 陸は息苦しさを感じ、ぎゅっと胸のあたりを掴むとうつむいた。後頭部でまとめた長い髪が揺れ、顔にかかる前髪が不安そうに動く瞳を隠す。

 自らの足で黒船を見に行ったあの時から十四年経つが、陸の外見は生きてきた年数に比べて随分と若かった。

 もし陸が人であったなら、青年の姿をしていただろう。しかし陸はいまだに少年の姿をしている。象徴という神秘的な存在であるため、人と同じように年を取ることはなかった。成長速度が遅く、外見だけではなく、内面にも幼なさを残し、まるで時間に取り残されたように見える。

 しかし陸本人に焦りはなかった。人と動物と植物、みんな成長速度が違う、くらいにしか思っていない。

 当初は自分が何者なのかさえも理解していなかった。現在も正確な答えを知らないが、人々には近代的な陸軍を象徴する存在として認識されている。この国の近代化は始まったばかりなので、その幼さには納得できた。

 そんな陸は現在、フランス軍事顧問団による指導を受けながら、伝習隊の訓練に参加していた。まだ少年のような容姿のため、すべてを伝習隊と同じようにはできていないが、それでも一員として頑張っていた。

 伝習隊の屯所は竹橋、小川町、大手町など各所にあり、操練場は深川越中島、駒場野を主として江戸近郊に点在している。陸はこれらの場所を飛び回り、忙しい日々を送っていた。

「ああ、大変!急がないと……」

 陸は胸のざわめきを感じつつ物思いにふけっていたが、伝習隊の日課をこなすために身支度を始めなければならなかった。起床は六時で、六時十二分に点呼があり、その後は掃除、六時半には朝食が待っている。

 食事を思えば気分が上向くが、胸のざわめきを思うと、今日一日何かが起こる予感は消えなかった。

 

     *



 ――京都。

 この日の京都御所は、不穏な空気に包まれていた。討幕派によって綿密に準備された政治的クーデターはすでに前日より密かに動いていたが、その大一番がこれから始まろうとしていた。

 朝、岩倉具視が王政復古の詔勅案を携えて御所に現れ、これを奉呈し、断行するべきであると上奏した。御所の外では薩摩をはじめとする藩兵たちが西郷吉之助の指揮の下、周囲を厳重にかためる。

 そして皇族をはじめ、公卿、藩主たちが一堂に会し会議が開かれた。事前に反対派の公卿らの参内を差し止め、賛成派だけが集められた会議において、上奏は裁下され、まだ若き天皇によって、王政復古の大号令が発せられた。

 これにより、古くからの制度であった摂政や関白、征夷大将軍、議奏、伝奉、国事御用掛、守護職、所司代などの地位は全て廃止され、新たに総裁、議定、参与の三つの職から成る新しい政治機構、新政府の発足が宣言された。

 藤原道長が設置した摂関職、そして鎌倉幕府から約七百年来続いた武家政治など、これまでの旧体制は終焉を迎え、新たな時代が幕を上げた。

 

     *



 ――幕府陸軍の屯所。

 ドクンッ。

 突然、陸の身体に衝撃が走った。
 地面が揺れたかのように、陸の身体も大きく揺れた。

「な……なにっ……?」

 朝から続いていた胸騒ぎが治まらず、気分が悪くなって屯所の自室で休養していた陸だったが、今になってさらに身体の状態がおかしくなった。衝撃から、何かに飲み込まれ、何かに引っ張られる異常な感覚が全身に広がっていく。陸は息苦しさを感じながら、うなされ、肩で息をした。明らかに異常な症状だ。陸はこれまで、人に起こる病気はほとんど経験がなかったが、朦朧とした意識の中で、これはその類ではないと直感的に感じた。

 演習はもう終わっているので屯所には人はいるのだが、陸は一人部屋にいるので、誰も彼の状況に気付かない。実際、誰かに見つかるよりも見つからない方が良いと、陸は考えた。医術で治せるとは思えないこの異常は、自分で何とかやり過ごすしかないのだろう。

「ああ……消えてしまうかもしれない……」とすら思い始めた頃に、全身まで広がっていた異常な感覚がスーッと引いていくのを感じた。胸騒ぎは残っているが、うなされるほどではない。

 陸はぎゅっと閉じていた目をゆっくりと開き、数回瞬きをすると、自然と口が動いた。

「変わっ……た……」

 何かを考えて言葉にしたわけではなかった。急激な身体の異変は収まったが、同時に身体の内側の何かが変わってしまったと感じる。何が変わったのかは分からないが、以前の自分とは違うことはだけは分かった。

 陸は、身体を起こし、乱れた衣服を整えると突然荷物をまとめ始めた。必要最低限の物だけを持っていけばいい……。導かれるような感覚で、淡々と手が動いた。なぜこうなったのか、自分は何をしているのか、という疑問はあったが、それ以上に陸の頭には、進むべき道が明確に開かれていた。そこにたどり着かなければならないという思いに駆られた。

 

     *



 同時刻帯。
 築地にある海軍伝習所の生徒寄宿舎で、海軍の象徴と称される海の身にも異変が起きていた。

「うっ……」

 急に身体に衝撃が走った。そして眩暈とともに、身体全体がぐらつき、立っていることができなくなった。思わず片膝をついて転倒を防ぐと、次第に全身へとしびれるようなざわつきが広がる。不思議な感覚に戸惑った。

 今日は朝から、いや正確には昨日からだが、調子が悪く、稽古にも集中できなかったが、それが今になってさらに悪化するとは思ってもみなかった。

 そういえば……と海はふと思い出す。確か大佐も調子が悪そうで、途中から稽古に参加していなかった。もしかしたら、我々特有の何かがあるのだろうか。

 海はそんなことを考えながら、深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせると、徐々にざわつきが収まってきた。まだ身体の内側に何かがくすぶっているが、立ち上がれないほどではないので、気持ちを引き締め、ゆっくりと立ち上がる。椅子に向かおうとしたその時、

「……?」

 海は何かが違っていることに気づいた。
 異変が起きる前と外見は何一つ変わっていないが、ざわつきが全身を巡ったあとには、身体の内側の何かが大きく変わったように感じた。

 そして脳裏にぼんやりと道が浮かび上がる。そこへ向かわなければならないと、本能が仕向けているような感覚で、静かに焦燥感が広がった。この環境ほど海軍のいろはを学ぶのに最良な場所はないのだが、まるで次元の違う所から引き寄せられているようだ。

 

     *



 西の空の赤みが薄れてからどれくらい経っただろうか。
 あれから暮六つが過ぎたが、海はしばらく自室で大事をとっていた。あの症状が一度きりなのかもわからない。焦燥感は消えなかったが、むやみに歩いて倒れるのは避けたいと思っていた。
 それでも先ほど、夕食の時間になり無事に済ませて帰ってきた。

 そういえば、大佐の姿をいまだに見かけない。同じ部屋を利用しているのだが、朝具合が悪そうな姿を見たきりだ。

 大佐とは伝習が始まる直前、生徒宿舎で再会し、お互い象徴なので同じ部屋に割り振られた。生徒宿舎は横に長い建物で、部屋は船の客室のような作りをしており、二人部屋だった。

 思い返せばこの一か月、お互い意思の疎通が円滑に図れているとは言い難かった。海外生活を長く経験した大佐は自信に溢れていたが、海にとってはかえってそれが煩わしく、交流は最小限に留まっていた。もともと海自身おしゃべりな性格ではなく、むしろ年々寡黙になってきているのだ。

 それでもこの異常な身体の変化については、大佐に聞いてみたいと思っていた。

 それともう一人、陸のことを考える。
 あの衝撃がやってきた時、これは海軍だけではなく陸軍にも起こっているかもしれないと、彼の身を案じていた。それと同時にある思いも浮かんでいたが……。

 海は椅子に座ったまま、しばらく考え込んでいると、突然窓を叩く音がした。

「海っ……大佐っ……!」

 声を顰めつつも、必死な陸の声が海の耳に届いた。

「陸!」

 今しがた考えていた相手が現れた。
 急いで窓を開けると、そこには旅支度をした陸がいる。

「海入れてっ」

 陸は窓の縁に手をかけて、中に入ろうとする。海は陸の腕を引き、体を抱えて引き上げた。

 陸がこの宿舎に忍び込んだのは今回で二度目だった。この部屋には海と大佐がいるため、二人に会いたい一心で、移ってきた直後に忍び込んだことがあった。

「陸」

『どうしたの?』という言葉は続かなかった。先ほどの異変と陸が来たことが、ああ、やっぱりそういうことなんだと妙に納得していた。

「海、一緒に行こ」

『どこに?』という疑問もなかった。あの衝撃から頭にぼんやりと浮かぶそこがそうなんだろう。お互い目を合わすだけで、状況が通じ、海は無言で頷いた。衝撃が走ったあの時も、陸を案じると同時にどこかでこうなる予感がしていた。

 そこからの行動は早かった。海は荷物を手早くまとめ始める。すでにあの時から無意識に整理をしていたので、準備にさほど時間はかからないだろう。

「ねぇ海っ。大佐は?」
「わからない」

 大佐もきっとあの衝撃を受けているはずだが、どこにいるのかさっぱりわからない。

 体調に問題がなければ、この伝習所の稽古所にいたかもしれない。ここの稽古所には帆装や大砲を備えたフリゲートのデッキが作られているから、好学の大佐なら居そうだ。あるいは得意の語学を使って教師たちに教えを請うのもありだろう。だが、自分と同じく体調が悪ければ、きっとどちらにもいない。

「朝に見たきりで、それ以降は見ていないんだ」

 陸は大佐も連れて行くつもりなのだろう、大佐の不在に不安の色を滲ませていた。

「大佐を待つ……」

 海はその言葉を聞くと外を見た。冬なので陽が沈むのが早く、もう暗くなっている。

 今からすぐに江戸を抜けるのは無謀だと考え、先ずは一か月前まで過ごしていた自宅へ向かい、そこで一晩過ごしてから、翌朝旅立つのが現実的だと判断した。そう考えると、今日は自宅までたどり着ければ何とかなるだろう。

 焦燥感が海を襲っていたが、それ以上にそわそわしているのは陸だった。今にも大佐を探しに出てしまいそうで、海は陸をなだめてベッドに座らせた。万が一、大佐以外の人物が入ってくる場合に備えて、海はドア側の隣に腰を下ろし、陸の姿を隠した。

 すると、タイミングよくドアが開いた。

「大佐!」

 陸は姿を確認する前にすぐに立ち上がる。先ほどの気遣いが全く意味をなさなかったが、幸い入ってきたのは大佐だった。

「陸さん」

 大佐は少し驚いた表情を見せるが、どうしてここにいるのか疑問を持つほどではないようだった。大佐はゆっくりドアを閉める。

「大佐も行こうっ」

 早速陸は大佐にそう伝えた。

「『も』?」

 大佐はそう言うと海に視線を移す。

「海さん、了承したんですか?」

 大佐が、『何が』『どうして』『どこに』、と聞かないところを見ると、大佐にも同じ異変が起きていたと確信した。しかし、今の問いは――。大佐の責めるような視線に眉をひそめるが、黙って海は頷いた。

「まさか……」
「大佐?」

 海と大佐のやり取りを眺めていた陸が不安そうな声で大佐を呼ぶ。大佐はその声に反応するように、陸に向き合いこう言った。

「陸さん、行かないでください」
「え……っ」

 まさかの返答に陸は驚きの声をあげる。

「西の方で何かが起こったことは、感じました。自分の身がどこか変わってしまったことも。最初は病気かと思って、念のため医師に診てもらったんですが、人の病気ではなかったことがわかりました。おそらく討幕派が、何かしらの行動を起こしたのだと思います」
「うん……」

 陸は頷く。それを見て大佐は更に続ける。

「ですが、それがどのようなものなのか、まだ全く分かりません。分からないうちに、行動するのは危険です」

 確かに大佐の言い分も分かる。
 まさに正論ではあるのだが……。

「でも……身体を止められない」
「それほどですか……。でもまた同じ衝撃が来て元に戻るかもしれませんよ。討幕派が何らかの行動を起こしたとしても、徳川家の力はいまだ健在です。討幕派の思惑通りにすんなり事が進むでしょうか」

 確かにその通りではある。幕府が無くなり、徳川家が一大名になったとしても直轄領だけでも四百万石を持つ。諸藩とは比べ物にならないほど、その勢力は圧倒的だ。陸に反論の余地はない。

「それに……幕府には恩義もあります……」
「……っ!」

 大佐はオランダへ連れて行ってくれた大恩、榎本や勝らの理解者がいてくれること。そして海軍の象徴として力をつけるためには、現在の環境が最良であることを挙げた。

 それを言われると陸も海も胸が痛む。象徴としての役割を持ちつつも、人間的な感情も持っているため、その部分に触れられるとたまらない気持ちになる。幕府があったからこそ、今の身分を持ち、安定した生活を送ることができたのだ。

 そして最後に、重要な事実を突きつける。

「幕府は圧倒的な海軍力を持っています。討幕派とは比べ物になりません」

 第二次長州征伐が行われた際、幕府側は陸地戦では苦戦を強いられたものの、海戦では優位に立っていた。その時点で戦力差があるにもかかわらず、幕府海軍に新鋭艦「開陽丸」が加わった。あらたに旗艦として君臨するこの軍艦はオランダの最新技術を詰め込んだ世界に誇る最強の軍艦であり、大佐はこの軍艦に乗って四月に帰国したばかりで、その信頼と愛着は相当なものであった。

 そして「開陽丸」に続く新たな軍艦「甲鉄艦」もすでにアメリカと交渉が成立し、幕府への売却が決まっている。「開陽丸」「甲鉄艦」を擁する幕府艦隊はまさに無敵だ。

「海さんはそれを十分に知っているはずでしょう?」

 大佐は再び海に視線を移し、そう言った。その目は同じ海軍の象徴として、その事実を知りながら陸を止めようともせず一緒に幕府を去る判断をした海を暗に責めていた。

「……」

 海は押し黙る。確かにいちいち正論でごもっともだが、海は心の中で反発を覚えた。そんなことは分かっている。しかし、どうしょうもない焦りも感じるのだ。もはや頭で考えて行動しているのではなく、言うなれば本能のようなものだ。

 むしろ、なぜお前はそれを無視するのかと言ってやりたいが、なんの裏付けもない不確実な衝動と確実な現実では、大佐相手に言葉で争っても勝負にはならない。大佐は昔から頭がよく弁が立つ。

 そして沈黙が落ちる。

 海は、どう大佐に言い返そうか、何か大佐を納得させる情報はないものかと頭を巡らすが、なかなか浮かばない。幕府海軍の強さも「開陽丸」については明らかに大佐の方が詳しい。海は帰国時に横浜で見たくらいで、「開陽丸」はその後大阪湾の警固についている。

 何かを挙げるとすれば、「甲鉄艦」がまだ引き渡されていないことだろうか。しかし、「開陽丸」がいる時点で幕府艦隊が圧倒的に強いのは明白だ。違う切り口を考えるが、なかなかうまくいかない。そんな中、陸が先に沈黙を破った。

「止めることは出来ないよ。大佐」

 不安げな表情は変わらなかったが、その瞳には強い意志が宿っていた。

「陸さん……」
「きっと何かが大きく変わった。これからもっと大きく変わる」

 陸は今ある確実な現実さえも吹っ飛ぶほどの何かが起こると感じているようだ。
 およそ論理的ではなかったが、何かが見えていると思えるほどの、真っ直ぐな陸の視線に大佐は一瞬怯んでしまった。

「だっ……だからと言って……! なんで今すぐ行く必要があるの?陸さんは幕府側として既に戦にも参加しているんだよ?向こうで敵と思われてひどい目に合うかもしれないし、利用されるかもしれないよ。そもそも! 私たちを受け入れてくれる保証もないからね!」

 大佐は帰国後から始めた、やけに丁寧な話し方が崩れてしまうほど動揺し、必死に陸を説得する。

「でも行く」

 しかし陸の意思は揺るがない。

「陸さん……」
「大佐も一緒に来て欲しい」

 陸は大佐の懸念に何一つ答えていないのに、解決していないのに、大佐は陸の言葉に引っ張られそうになる。それでも大佐は踏みとどまらなければならなかった。

「大佐!」
「行かない!」

 二人は平行線だ。
 このままでは出立することはできない。時間だけが過ぎていく中、焦燥感が増していく。そして海は口をはさんだ。

「俺は行く」

 大佐は眉を顰め、鋭い視線を海に向けた。しかし、それに怯むことなく海は続ける。

「大佐の言うことはもっともだけど、この焦燥感はどう説明するんだ」
「それは不確実なものです」

 やはりこれは一言で片づけられてしまう。

「それでも陸は絶対に行くぞ」
「……?」

 大佐の目は、それを今ここで食い止めている、と語っていたが、ここに来てからの陸は、海や大佐以上に向かうべき場所が明確に見えているようで、その意思は一度も揺らいでいない。たとえ海軍の二人が行かないと言っても、一人で行ってしまうかもしれないほどだ。海軍と陸軍は、この国の安全と繁栄を支えるために、共にあり続けなければならないはずなのに。

「この国において、海軍と陸軍、どちらかが欠けることなどありえない」
「……」

 さすがの大佐もこれには黙る。

 正直な所、人々が自分たちを称して海軍や陸軍の象徴と思っていることも、正確な所は分からないから不確実ではある。それでも人々がそう考えるなら、それが事実のように思う。しかし、海軍や陸軍とは具体的にどの海軍や陸軍を指しているのかは不明だ。

 大佐が懸念している通り、以前の第二次長州征伐で海と陸は幕府海軍及び幕府陸軍に随行しその姿を敵前に晒している。であれば、二人が幕府の海軍や陸軍の象徴として扱われる可能性もあるだろう。

 しかし、それでも向かわなければならないと本能が告げている。海はこれで存在を消されるのであれば、そういう運命なのだろうと思った。なぜなら俺たちは人ではないから。

 大佐は陸と海の真っすぐな視線を受けて沈黙し、一度目を閉じた。その後、長い時間が流れたように思われたが、実際にはほんの数秒だった。
 そして大佐は諦めた表情で口を開く。

「わかりました。それでは、二人で行ってください」
「大佐っ!」

 陸が顔を歪めて大佐を呼ぶ。

 道が分かれた――。

 きっと大佐も本能的には感じているのだろうが、情や知識が妨げるのか、はたまた大佐には違う役割があるのか、それは分からなかったが、今、明確に道が別れたことだけは確かだ。

 陸を見れば、その瞬間、涙を零した。昔に比べれば泣き虫ではなくなったが、相変わらず涙腺はゆるい。大佐は陸の肩に手を乗せて、はらはらと流れるその涙を拭いながら、

「陸さん気を付けて。海さんも」

 と言った。

「大佐っ」

 陸は大佐に抱きつき、腕に力を込める。以前の陸ならもっと大泣きしていただろうが、今は静かに涙を流し続けた。

 今生の別れになるかもしれない。三人共その可能性を考えた。少なくとも、一度は敵味方に分かれる運命が見えている。陸はそのことを思うと、抱き着く腕を解くことができなかった。

 別れを惜しむ抱擁は長く続いた。

「残ってもいいんですよ」

 と大佐が声をかけると、陸はビクッと身体を揺らし、ゆっくりと身体を離した。
 なおも去りがたい陸に大佐はもう一度、

「残ってくれる?」

 と、まるで昔のように少し微笑みながらそう声をかけたが、陸はまた大きな涙を一つ零しながらも首を縦に振ることはなかった。答えの分かっていた大佐は、

「陸さん、気を付けて」

 と、もう一度と陸の身を案じて送り出した。

 陸が動くのを見て、海は荷物を手に、窓へ向かった。ドアから出るのは誰かに見つかる恐れがあるので、窓から出ていくのが無難だ。

「陸」

 と声をかけると、歩きだすと思っていた陸の足が止まっていた。

「陸っ」

 と少し強めに言うと、

「海、ちょっと待って」

 と、陸が海に向かい答えた。その顔は先ほど泣いていた陸とは違って凛としている。陸は再び大佐に向き合うとその手を取った。

「?」

 ぎゅっと手を握りしめてこう言う。

「絶対守るから」
「陸さん……」

 陸の瞳が鈍く光りはじめた。大佐は目を見開く。

「絶対に大佐を守るから。もし戦になったら……、幕府の海軍は強いけど、それでももし何かあったら……、その時は陸軍兵の近くに居て。必ず守るから」

 陸は最後、力強くそう言うと、瞳の光は増し、まるで金色に輝いていた。

 陸は今生の別れになど絶対にしないと強く思った。それでも戦の足音は聞こえている。陸は大佐を守るためならばどんな手段でも使う覚悟を決めた。

 大佐はその光を見つめながら、陸の話す内容に、どんな原理が働けば、そんなことができるのかと不思議に思った。敵味方に分かれていても陸軍兵であれば、陸の思い通りに動かせるとでも言うのだろうか。明晰な大佐の頭脳を以てしても、理解はできなかったが、それでも『もし』そんな場面が来てしまったら、自分はその通りに行動してしまうかもしれないと思った。

 陸は言い終えると大佐から離れ、窓の方へ向かった。最後にもう一度振り向き大佐に小さく頷くと、窓から飛び降りた。最後に見た陸の瞳は元に戻っていたが、意思の強いまっすぐな目をしていた。

 そして海も飛び降りる前に一度大佐を見る。

「陸さんをお願いします。それと海さんもくれぐれも気を付けて」

 その言葉をそのまま受け取れば良いのだろうが、海はそう単純でもないと思った。
自分たちは同じ海軍の象徴だから、戦が起これば直接的に対峙する可能性がある。

 最後の言葉の真理を確かめる気はないが、警告の意味合いも含まれているのではないかと海は思った。海軍力では圧倒的に不利な所へあえて向かう自分に対しての──。

 海戦になれば、勝敗はもう目に見えている。複雑な気持ちを抱えながら、「大佐もな」と軽く声をかけると、今度こそ窓に手をかけ飛び降りた。

 大佐は窓際に立ち、二人の姿を見送った。徐々に後ろ姿は小さくなり、外は暗いので見えなくなるのが早かった。

 窓を閉め、ゆっくりと椅子に座ると、今後のことを考えた。まず二人がいなくなったことは何かしらの騒ぎを引き起こすかもしれない。そしてきっとその件で調べがあるとすれば自分のところに来るだろう。

 そして二人を導き、自身にも変化をもたらした要因が明日以降明らかになってくるはずだ。しかし、何が起ころうとも、幕府海軍に対する絶対的な信頼は揺るがない。だからこそ、自分はここに留まっている。

 大政奉還が行われても政治体制は暫定的ではあるが、まだ変わっていない。近い将来、再び徳川家を中心とした新たな政治体制が確立される可能性も高い。大佐はその時、二人が戻って来られるように、ここで居場所を守りたいと思った。二人には言わなかったが、それも残る一つの理由であった。

しかし──。
事態は大佐の想像を超えてくる。

 

     *



 京都ではその夜、御所の紫宸殿の東北にある小御所において、新たに設置された総裁、議定、参与の三職が集まり、天皇臨席のもと、第一回御前会議が開かれる。

 この会議は、クーデターの仕上げとも言えるものであり、最も重要な議題は徳川家の処遇であった。討幕派は徳川家に力を持たせたままでは新政府も形ばかりのものになりかねないとして、官を辞して土地を返納するべきだと主張する。

 この会議は日にちを跨ぐほど長引く。激しい議論が交わされ、徳川慶喜を会議に列席させ、公平に衆議を尽くすべきとの意見も出るが、最終的には討幕派が優勢となり、前将軍徳川慶喜に対して、朝廷から官位と領地返上の命令が下されることになる。これは一大名としてさえ存続することのできない厳しい処遇であり、この決定は、今後さらなる内乱へとつながっていく。

 

     *



「陸! こっち」

 海軍伝習所ならびに生徒寄宿舎は海に近い場所にあったため、外に出ると冷たい海風が頬を撫でた。

 海が周りの様子を確認しながら出口へ誘導する。陸がどうやって忍び込んできたかはわからないが、少なくともそれよりは安全なはずだ。

 なんとか誰にも見つからず無事に抜け出し、海が自宅へ戻ろうとすると、陸が首を横に振った。

「陸、この時間から旅には出られないよ。一晩は自宅で身を潜めておいた方がいい」

 すでに暗いので、明日の早朝改めて出発しようと提案するが、

「ううん、追っ手が来るかもしれない」

 と、陸は緊張した面持ちで言った。

 陸と海はお互い六時の夕食はすませてきたが、陸軍の伝習隊は八時に点呼があった。そこで陸の不在が決定的になる。一般の伝習生とは違うため、行動を別にすることは度々あったが、なにも言わずに出てきたことは、さすがに問題になるはずだ。

 陸は感謝の気持ちと伝習隊を離れる旨を手紙に書き記し、それを置いてきたが、それだけで納得して放置してくれる保証はなかった。今は以前の様に監視の目が付いてはいないとはいえ、姿を消したとなれば追手がかかる可能性はある。少なくとも自宅は捜索の対象になるだろう。

「このまま東海道を進んだ方がいい」

 陸は海にそう言うと、歩きはじめる。

「わかった。それなら品川宿を目指そう」

 海はそう答えると、ひとまず江戸に一番近い宿場である品川宿なら行けるだろうと考えた。既に時間が遅いので、徒歩での行動は危険を伴うが、あそこまでなら船が使える。

 二人は日本橋沿岸にある船着き場を目指し、慎重に歩きはじめた。最近、江戸市中の治安が極度に悪化していて、二人に緊張感が走る。大きな要因は薩摩藩邸を拠点とする浪士たちが強盗や放火といった破壊工作を度々行い、幕府を挑発しているからであった。彼らは「御用盗」と名乗っていたが、それに便乗した博徒や乞食も悪事を働き、略奪や辻斬りまで発生していた。

 この暗がりの中で、そんな輩たちと出会ったらひとたまりもない。二人は手にした提灯を頼りに、身を寄せ合いながら周囲を警戒して歩いていた。目的の場所まで半里と4丁ほど(約2.6km)だ。
そこから船に乗れば品川宿入口の八ッ山下の船着き場まで一気に行ける。

 陸と海は、細心の注意を払いながら日本橋に近づいていた。京橋を渡る際、陸は月を見上げながら、口を開く。

「またここに戻ってこられるよね」

 海は頷いて応えた。

「きっと」

 この場所は、二人にとって多くの思い出が詰まっていた。ここで、勉強したこと、生活したこと、街は活気にあふれ美味しい食べ物もあって、お花見したり、花火を見たり、祭りがあったり、思い出せばキリがないが、そのひとつひとつを鮮明に思い出せた。

 二人は江戸の町を名残惜しみながら、そこからすぐの日本橋に到着し、船着き場を見つけると、ほっと胸をなでおろした。船頭に目的地を告げ、小舟に乗り込むと、舟は静かに川を下っていく。

 これは以前、陸・海・大佐の三人で黒船を見に行った時と同じ経路だった。

「陸?」

 舟に乗り始めてすぐ、さっきまで元気だった陸が急に静かになった。顔を覗き込むと、青ざめた表情をしている。そして海の腕をぎゅっと掴み震え出した。

 また身体の異変が!? と海は心配したが、自分は何ともない。

「陸! どうしたの!?」

 少し身体を揺らすと、

「ヤメテ……オチル……」

 とさらにしがみついてきた。

「え?」
「ウミ……ウゴイタラ……オチチャウ……」

 なぜかカタコトで陸は喋り始め、不安そうな目で周囲を見渡していた。

「なんだ……そんなこと」

 つまり単純に小舟を怖がっていただけだった。落ちてしまいそう、という理由で。

「ソンナコト……ジャナイ!トッテモ……ジュウヨウ……イマ……ヨル……オチタラ……タスカラナイ……」
「そんな訳あるか」

 海は内心笑っていた。水泳はできるようになったはずだと言ってみたが、

「ヨル……ムリ……イッパイ……キコンデル」

 と返事が返ってきた。

 そんな状態がしばらく続き、川を抜けて海に出ると、寒くて暗い海風が強く吹きつけた。陸はさらなる恐怖でついに周りを見る余裕もなくなった。

「……」

 全くの無言になった陸を、海は「大丈夫だから」と寄り添いながら、励ましていた。時々、

「……マダ?」

 と、うつむきながら海に聞いてくるが、その都度、

「もうちょっとの辛抱だから」

と声をかけてあげた。しばらく波間を揺れていると、海の目に品川宿入口、八ッ山下の船着き場が見えてきた。

「陸。船着き場が見えてきたよ」

 海は恐怖と寒さで震える陸の肩をさすりながらそう伝えると、陸はやっと顔を上げた。

 やがて小舟が無事に船着き場に到着する。周囲には風の音が響き、暗闇が広がっていた。海はふらつく陸を支えつつ、なんとか陸地に降り立った。

「ああ……やっぱり地面に足が付かないと」

 陸はやっと表情を和らげ、ほっと息をついた。

 

     *



 品川宿に入ると、二人は宿を探した。すでに夕食はお互い食べてきてはいるが、陸は宿場内で売っていたいくつかの食べ物を購入していた。先ほどの小舟でのしおらしさが嘘のように元気になる。

「海これ美味しいよ。どうぞ」
「ありがと」

 陸は手に持ったまんじゅうを海に渡すと、こう言った。

「ここまでは追ってこないよね」
「うん」

 東海道の第一の宿として栄える品川宿は、北品川宿、南品川宿、歩行新宿の三宿から成り、旅籠屋だけでもゆうに百軒を超える。さらに、さまざまな業種の店が立ち並び、商いを生業とする家は六百軒にも達した。身を隠すには都合がいい。

 かつて桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した水戸藩士たちも探索が厳しい江戸市中ではなく、品川宿に滞在していた。

 また、この地の妓楼では、高杉晋作や伊藤博文など幕末の志士たちが密儀を行い、長州藩士によるイギリス公使館焼き討ち事件でも同妓楼が使われている。

 品川宿は幕末の動乱期に起きたいくつかの事件の裏舞台となり、その影には多くの歴史的エピソードが隠されているだろう。



「あの店まだやってるかな」
「陸も真面目に探して……」

 夜の品川宿で二人は引き続き旅籠屋を探していた。陸は度々食べ物屋に目を引かれて立ち止まり、海はその近くの旅籠屋を探し続けたが、女郎屋化した旅籠屋が多く、純粋な旅館を見つけるのに苦労した。

 それでもようやく二人は適当な旅籠屋に入ることができ、急いで入浴を済ませると、明日の準備をした。

「ん?」

 外から奇妙な音が聞こえてきた。その音は次第に大きくなり、騒がしくなる。

「これは……」

 陸が海の方に目を向けると、

「確かめてみよう」

 と海も頷いた。二階の戸を開けて外を見る。するとそこには、

『ええじゃないか』
『ええじゃないか』

 と歌いつつ、奇妙な恰好をした一団が狂ったように踊っていた。男は女装し女は男装し、顔に墨をぬる者もいれば、老婆は娘なりすます。頭には灯りのせ様々な仮装をしながら、太鼓をたたき三味線をひき、踊り歩いている。

 陸と海は複雑な表情で一団を眺めた。
「ここでも……」
 と陸は呟く。

 今年の八月。誰が最初に言い出したのかは定かではないが、『天から御札が降ってきた』との噂が流れ、これを聞いた民衆たちは、めでたいことが起きる前兆だと信じ、『ええじゃないかとええじゃないか』と囃子ながら昼夜問わず踊り狂った。これは役人でも制止することのできない熱狂的な民衆運動となり、治安と風紀を著しく悪化させた。

 やがてこの騒動は、東海道筋一帯から京阪地方を中心に広がり、京と江戸との関係が緊迫する中、政局において重要な地点を麻痺させた。討幕派はこの混乱に乗じ、幕吏に見つかることなく動けたため、中にはこの騒動は討幕派が仕掛けたと考える者も出た。

 その一方で、民衆が現状に大きな不満を抱いていたことも事実であった。数年続きの凶作と、開港による諸大名の軍拡で、物価が上昇し庶民は生活に苦しんでいた。その苦しさが怒りに変わり、ついに我慢の限界を超えたのである。

 陸と海は間近で目にする民衆の狂乱に困惑していた。たかり、無銭飲食、不貞など……『何をしてもええじゃないか』とばかりに踊り狂っている。金のある家は略奪や打ちこわしを避けるため金品を施し、また酒をふるうなどねぎらっていた。

「江戸市中でも頻繁に起こっているよね」
「いつまでこんなことが続くんだろう」

 最近はお互いに閉ざされた機関に身を置いていたため、改めて感じる民衆の力に少なからず狼狽した。そして一行の振る舞いを見ると、秩序が乱れ、幕府の権威が失墜していることを感じずにはいられなかった。

 しばらく眺めていると、その一団は踊り歩きながら去っていった。

 騒ぎが収まり、安堵のため息をつくと、二人は早めに布団に入った。行灯の灯りを消すと、部屋は暗闇に包まれる。

 二人は布団に入りながら築地の家を思い出していた。一緒に住んでいた頃、よくこうして布団を並べて、お互いが通っていた講武所や軍艦教授所での経験を話し合い、新しい環境や知識を披露しあっていた。互いに切磋琢磨し、励まし合いながら少しずつ成長していた日々は、時代が大きく変化していく最中ではあったが、幾分平和だったと思い返す。

 それぞれの道が近代化される中で、天狗党の乱や長州征討といった幕末の波に飲まれ、今もさらなる混乱の始まりかもしれないが、二人でこうしているとあの頃に戻ったような気分になった。

「ねぇ、海。伝習所での稽古はどんなだったの?」

 陸が興味深そうに尋ねた。

「運用術や砲術、航海術を中心に教えてくれて、水曜日には軍艦での実習もあったよ」
「実習は海も参加したの?」
「なんとかね。それと海軍士官の佇まいも教えてくれたな」

 残念ながらもう全て過去形だ。

「陸の方はどうなの?」

 と海が聞くと、

「歩兵、砲兵、騎兵の伝習をしてくれてるけど、やっぱり騎兵が一番好き」

 と陸は嬉しそうに話した。

 二人は、あの頃の様に伝習隊や海軍伝習所での話をお互いに披露しあう。たった今、そこを離れてきたばかりなのに、口からは西洋式の新しい軍隊の話ばかりが出てくる。

 本当は身体に起きた現象やこれからのことも考えて、もっと話すべきことがあるかもしれなかったが、一方でそれは自分たちが変えられるものではないと感じている。幕末の混乱よりも、この国の軍隊の未来について語る方が二人の心を弾ませ、軽くした。

 思い出話に花が咲き、とうとう黒船を見に行った頃の話までさかのぼると、途中から陸の声が弱くなり、じきに聞こえなくなった。海はついに陸が寝入ったことに気付く。「陸?」と呼びかけても返事はない。海は小さく笑うと、自分もゆっくり目を閉じた。


 翌朝──。

 陸はスッと目を開けると、周囲はすでにうっすら明るかった。伝習隊では六時に起床するため、習慣で同じような時間に目が覚めた。陸は身体を起こすと隣で寝ている海を見て、身体を揺さぶる。

「海起きて」

 海は揺れる感覚に、薄く目を開けた。海軍伝習所の起床は七時だが、意識はすぐにはっきりした。

「おはよう、海」
「おはよう……」

 陸はその後、「……すぐに起きちゃったか」と小さな声でつぶやきながら身支度を始めた。

「……」

 昔は飛び込んで起こされることがよくあって、朝から大変な目にあっていたことを思い出した。海は冷や汗をかきながら身支度を始めた。

 二人は軽く朝食を食べて外に出る。品川宿ならではの交通量の多さで、すでに人々の行き来が盛んだ。二人は安心して歩き出す。店もいくつか開いており、立ち止まろうとする陸を、海がその都度引き剝がしながら、二人は品川宿を発った。

 一晩お世話になったこの穏やかな品川宿も、数週間後には品川宿のうち南品川宿の多くが焼失する運命が待っていた。江戸を荒らす「御用盗」を匿っていた薩摩藩邸が幕府によって焼き討ちされ、そこから逃走する残党たちが、追手をかわすために品川宿の家々に放火するのである。

 

     *



 品川宿を後にした二人は、京都に向かって再び東海道を歩き始めた。
 
「海、危ない! 早馬だ!」
「……っ」

 街道を歩く二人の横を、荒々しく馬が駆け抜けていく。まだこの地点であれば、昨日の京都での出来事は伝わっていないが、それも時間の問題だ。

 馬が通り過ぎるのを見守ると海が尋ねた。

「陸、この先何が待っていると思う?」

 江戸の主である前将軍、徳川慶喜は二条城に居る。自身が出席できなかった第一回御前会議の結果をまもなく受け取るだろう。二人が向かう先の京都は、暗雲が立ち込めている。

 陸は少し考える素振りをしたが、海を見つめて答えた。

「わからない。でも海がいてよかった」
「一人で舟に乗れないから?」

「違うよ! お……大きい船は乗れるよ」
「『大きい船』」

「そういえば『開陽丸』は大きかったねー」
「話変えてる」

「あ! 茶屋見つけた」
「ちょっと、待って!」

 陸は止まらずに茶屋に向かって走っていった。仕方なく海は追いかける。陸は走りながら先ほどの海の質問を思い出していた。本当は「戦が待っている」と言ってしまいそうだったが、言うのはやめた。政治情勢は不安定だが、いまだ未来は不透明だ。

 しかし陸の予想通り、翌年の一月三日、鳥羽・伏見の戦いが始まる。
 日本の新しい国家建設はその後も傷みを伴いながら進んでいくのであった。






はい!!以上になります! 色々校正していく過程でめちゃ削ったりしたので、個人的にはなんか全体的に短くなった感があるのですがwここまで読んでいただきありがとうございました!! 本当に感謝感謝です!!!!