大日本帝国陸軍 工兵

陸軍の技術屋

呼び名は「工兵(こうへい)」。階級は中佐。

陸軍における工兵の職務は極めて多岐にわたる。
陣地の構築をはじめ、架橋、障害物の開拓や撤去を行い、歩兵をはじめとする戦闘兵科に先んじて戦場に臨み、その進路を切り開く。日本陸軍の歌にもあるように「道なき方に道をつけ」、時には坑道を掘り進め、時には鉄道を敷設し、鉄条網や地雷原を敷設・解除するのも工兵の重要な役目である。
工兵1
さらに測量・地図作成や通信業務、舟艇の操縦に至るまで幅広くこなす。後の航空部隊の先駆けともなっており、陸軍における技術的領域の多くを担う存在である。

英語では「エンジニア(Engineer)」や「パイオニア(Pioneer)」とも称され、まさに技術をもって戦場を切り拓く、それが工兵である。

工兵精神

工兵の本領は、自らの身を挺しながら技術を振るい、他兵科の作戦遂行を支える事にあり、その根底には「犠牲的精神」が流れている。
戦場における工兵の作業現場は常に前線であり、砲兵のような遠距離火力を持たない工兵は、自ら危険に身をさらしながら自軍のために任務を遂行する。また高度な技術兵でありながら、いざとなれば銃剣を手に肉迫戦を挑むのも工兵の職務である。

基本的に工兵はサポート兵科であり、作戦上の主攻を担う兵科を立てて自らは黒子に徹する姿勢を持つ。若い頃はその裏方としての境遇に悩む時期もあったが、陸から励ましを受け、工兵科の深遠なルーツについて論じられた事で自信を深め、誇り高きプライドを胸に逞しく成長していった。

※工兵科の初期幹部には「沼津兵学校」の出身者が多く含まれていた。沼津兵学校とは明治元年に創立され、旧徳川家家臣の子弟らが集い西洋兵学を修めた屈指のエリート校である。幕臣直系ゆえの気風として、彼らの根幹には高い倫理観と武士道精神が宿っており、それが工兵の精神的背骨となっている。

エリート街道を進み、技術を磨く

明治15年に立案され、明治17年より10ヵ年計画で発動された「軍備拡張計画」の時代に、その存在が確認される。この軍拡計画は国内の内乱対応から外征(対外防衛)へと本格的に視点を広げた大掛かりなものであった。

しかし、工兵部隊の拡充ペースは歩兵や砲兵に比べると緩やかであった。そのため工兵自身の成長もやや遅く、「陸軍地方幼年学校(東京陸軍地方幼年学校)」への入学は歩兵や砲兵より1年遅れる事となる。その結果、幼年学校時代は先輩たち(特に砲兵)にいじられる運命を辿る事となった。

地方幼年学校卒業後は「陸軍中央幼年学校」に進み、次いで「陸軍士官学校」へ入校。士官学校入校時には、1年間の海外渡航を経ていた砲兵と同期合流を果たしている。

士官学校卒業後は、砲兵と共に「陸軍砲工学校」へ入校。難関の2年目「高等科」へ進み、さらに「優等」という優秀な成績で卒業。その後は「員外学生」として東京帝国大学(現在の東京大学)へ派遣されて就学し、その技術と思考にさらなる磨きをかけた。

初陣は日露戦争。以降も幾多の戦場を駆け巡りつつ、最新技術の研究開発や兵器の改良に尽力する多忙な日々を送る。また軍事面にとどまらず、関東大震災などの大規模災害時には、その優れた技術力を遺憾なく発揮して復旧・救援活動に従事していた。

※陸軍砲工学校は、高度な専門技術を要する砲兵・工兵科の将校に対し、さらに高度な教育を施す最高峰の機関。士官学校卒業後、1年間の隊付勤務を経て入学する。1年目の普通科で成績上位4分の1のみが2年目の高等科へ進級可能。さらに優秀な者は「員外学生」として東京帝国大学や京都帝国大学などの帝国大学へ派遣され、陸軍技術の中枢(エリート)として育成された。(※昭和14年より他兵科の受け入れも開始し、昭和16年に「陸军科学学校」へ改称)。

メインビジュアル

メインビジュアルでは「昭五式軍衣」を着用。実戦での現場指揮を想定した姿であり、軍刀や拳銃に加え、双眼鏡と図嚢を装着している。(※MMDモデルでは「九八式軍衣」への変更や装備の脱着も可能)。

勿論、時代の変遷や作業環境に応じて身に付ける軍装を着替えている。

面倒見のいい職人気質の兄貴

一人称は「俺」。
サポート兵科としての気質が根付いているためか、非常に面倒見が良く頼もしい性格。技術を尊ぶため、職人気質で妥協を許さない一面を持つ。

エリート街道を歩みながらも、泥に塗れ過酷な環境下で作業を完遂するその佇まいはまさに「工兵隊の鏡」であり、他兵科からの信頼も極めて厚い。
工兵2

祖である「陸」

日本工兵の基礎を築いたのは、陸軍の象徴である「陸」である。工兵部隊の整備と拡大に伴い工兵が誕生した経緯もあり、その根幹には常に陸の存在があった。工兵は陸を「祖」として心から尊敬・信頼し、彼を支えるべく全身全霊を捧げている。

また、若き日に自らの立ち位置について苦悩していた時期には、陸に親身になって相談に乗ってもらい、温かく励まされた恩義を今も大切にしている。

歩兵との信頼関係

陸軍において主攻を担う「歩兵」の責任感と奮闘に対し、工兵は深い信頼を寄せ、影となり日向となって力強く支えた。主兵である歩兵を立て、自らは裏方に徹する立ち位置を熟知しているため、無用な摩擦を生むこともなく関係は極めて良好。歩兵側からも、工兵に対してどこか弟のように親しみを感じる絶妙な信頼関係が築かれている。

親友にして技術仲間の「砲兵」

同じ技術系兵科として、砲兵とは深く長い付き合いを持つ。
幼年学校時代は先輩風を吹かす砲兵にいじられ、パシリ……(ゲホン!)にされる事もあったが、同じ象徴として目をかけられる事も多かった。その後の陸軍士官学校や砲工学校では同期となり、互いに切磋琢磨しながら学問に励んだ。

戦場で助け合うのは勿論の事、陸軍における技術開発の重責を二人で分かち合ってきた。(※陸軍の兵器開発を担った『陸軍技術本部』は、かつての砲兵会議と工兵会議が統合されて誕生した機関である)。

気性が尖りがちな砲兵に対し、工兵は大らかで包容力のある性格をしており、性格的な相性も抜群である。(※サポート兵科である工兵側がうまく一歩引いて付き合っている側面もある)。いずれにせよ、砲兵とは互いの長所と短所を補い合いながら歩んできた最高の親友同士である。

「飛行」の兄貴を自負

航空部隊の黎明期・創設期において工兵は多大な尽力を払い、その門出を温かく見送った経緯があるため、「飛行(陸軍航空)」に対して育ての親のような兄貴風を吹かせがちである。しかし当の飛行からは「もう無事に巣立ちましたので」と言わんばかりのクールな対応をされる事が多く、工兵は「つめてぇな!」と愚痴をこぼしつつも、何かとかまい続けている。

もっとも飛行側も表面上はクールを装っているものの、内心では工兵への深い感謝と尊敬の念を抱いている。

時代の寵児を可愛がるも、手を焼く

戦車兵を不遇な黎明期から見守り、戦車の技術開発にも砲兵と共に携わってきたため、戦車兵のことも気遣っている。その後、時代の要請とともに一躍脚光を浴び「時代の寵児」となった戦車兵が、その役割ゆえに態度を大きくさせていった際も、砲兵の態度のデカさで鍛えられている工兵は気にも留めず、純粋に可愛がり続けた。ただ、戦が始まれば機動力を生かして真っ先に突き進んでいく戦車兵の暴走気味な勢いには、流石の工兵も少々手を焼いている(この点については歩兵も同様の苦労を味わっている)。

現代では

現代では「陸上自衛隊 施設科(しせつか)」として勤務し、各種戦闘部隊の活動を技術面から強力に支援している。階級は「2等陸佐」。
その高い技術力は国内の防衛・災害派遣にとどまらず、PKO(国際平和協力活動)など海外での活動においても大いに発揮されている。
工兵3
軍帽を脱ぐ
工兵4
九八式
工兵5
略帽
工兵6
四五式
工兵7
もふもふ
工兵8
陸自(常装冬服)
読了