陸軍でノモンハン -hypnoSpirA-の動画解説

この度陸軍モデル配布に合わせ、ノモンハン事件をテーマにした動画を作りました。動画時間は三分半と非常に短いので、分かりづらい部分も多かったと思います。以下ざっくりですが動画解説と補足をしていきたいと思います。

あくまでも私の調べた範囲や、考えなのでその辺頭の隅に置きつつ見ていただけたらと思います。




ノモンハン事件をテーマにした理由


発端は超個人的なきっかけなんですが、色々と知る内に一般的にあまり知られていないという事、また知られていても主に機械化されたソ連軍相手にアナログ装備の日本は全く歯が立たなかった、また何もない平原なので無意味な戦いだったというような表現をしばしば目にするに至りました。

ノモンハン事件は、日本側だけでも2万人近くの方が亡くなられていると言われていますが、それほど壮絶な戦いなのに知られていない、また無意味と語られる事に疑問を感じ、作品にする事にしました。

また終戦直後はノモンハン事件における日本の被害はソ連軍のおよそ2倍という数字で語られていましたが(その為圧倒的に日本が負けたというイメージの定着に)、ソ連崩壊後、ソ連側の一次資料が公開され、現在はソ連側の被害も非常に大きかった事が明らかになってます(日本と同等もしくはそれ以上とも)。こうした研究が進む事による定説の変化も動機になりました。



そもそもノモンハン事件って何


簡単に言うとモンゴル(外蒙古)と満州国※の国境争いから端を発した戦闘行為です。モンゴルにはソ連、満州国には日本という後ろ盾があり、最終的にはその二国がメインで戦う事になりました。

※満州国とは…満州国は中国東北部、奉天省(遼寧省)、吉林省、黒龍江省、熱河省、興安省(内蒙古(東三省)とホロンバイル)から成る。満州は清朝、中華民国の地でしたが、満洲事変後、日本の支配下に。その後1932年に建国。満州国における日本の影響力は絶大。

ノモンハン地図
画像:国立国会図書館デジタルコレクション



いつ頃おきたのか


1939年(昭和14年)5月頃から(直接的な要因になったのは5月11日の衝突と言われている)。戦闘はそこから4ヶ月位。 ただ国境争いはそれ以前から頻繁におきています。

もう少し詳しく

ノモンハン事件が起きる前から小さな国境争いは頻繁に起きていましたが、基本的にはモンゴルと満州国の衝突でした。日本軍が動く要因としては、昭和14年4月25日に関東軍※において示達された「満ソ国境紛争処理要綱」が大きく影響していると考えます。これは従来と比べ外国の越境に対し積極的で厳しい態度で対処するよう示されていました。

※関東軍とは…中国の遼東半島は、日清日露戦争を経て日本の租借地となり、この辺りを「関東州」と呼んでいました。関東軍はその地と満州鉄道を警備する軍として配置され、その後は満州国建国に大きく関わり、次第に兵力も増え強大な力を持つ軍となりました。(関東は中国の遼東半島の事なので、日本の関東とは関係ないのでお間違いなく!)

参考

この頃の日本は日中戦争真っ只中、且つ泥沼というような状態で、陸軍も多くの兵を中国に派遣していました。更に国内ではドイツとの軍事同盟を巡る争いや中国大陸におけるイギリスとの緊張関係等、多くの問題を抱えていました。




なぜ国境争いになるのか


それは日本及び満州国側とソ連・モンゴル(以後ソ蒙)側で主張する国境線が違ったからです。 ソ蒙側ではこの戦いを「ハルハ河事件・戦争」と呼んでいますが、日本と満州国はこのハルハ河を境に国境としていました。しかし、ソ蒙側はそれより更に東方(満州国側)に国境ラインを引いていました。

ノモンハン地図2
ざっくりです!(割と河又が戦場になったので、この辺りをクローズアップ)
もう少し詳しく

ここは厳密に言うと非常にややこしいです!
元々日本側がハルハ河を境にしていたのは、日本軍がシベリア出兵時にロシアの地図を入手し、ここに記されていた国境がハルハ河だったからです。

少しさかのぼりますが、モンゴル・満州共に清朝の支配下にありました。この地は以前より蒙古部族間で牧草や水を巡った争いが絶えなかったので、清朝時代に部族の境界(行政的な境目)をハルハ河東方に定めた経緯があります。中華民国になった後もこの境界はハルハ河東方でした。

その後それぞれ独立。モンゴルはハルハ河東方を主張し、満州国はハルハ河を国境としました。ソ連は1933年頃まで帝政ロシア時代の地図を継承していて国境ラインはハルハ河だったのですが、モンゴルの主張を受け入れ、国境をハルハ河東方に変更しました。

余談(混乱するので飛ばしていただいても可)

日本側は「ハルハ河」と言いましたが、ここは非常に難解です…。日本側の地図がずっとハルハ河で統一されていたかといえば、そうじゃないからです(中にはハルハ河東方が境の地図もある)。詳しくは割愛しますが、ただ現場の部隊では「ハルハ河」の認識だったとは思います。


以上をざっくりと覚えて頂きながら解説を見ると多少分かりやすいかと思います。

とその前に注意点をいくつか。
動画は日本側から描いているので、解説での国境ラインは日本と満州国が主張するハルハ河とします。(越境→川を越えるっていう感じ) また、簡潔に表現する為、人名等の固有名詞はなるべく省いています。

解説はかなりざっくりした内容です。
もっと詳しく知りたい!という方は色々な関連書物を漁ってみてくださいね☆

オープニング-騎馬シーン

ノモンハン事件に主に参加したのは編成して間もない第23師団です。

このシーンは、日本側がモンゴル軍の越境を知り出撃。モンゴル軍をハルハ河の左岸に退却させたという状況を描いています。
映像で表現したのは捜索隊で、これは元々が騎兵なので乗馬シーンにしました。(あと陸軍の象徴である陸の乗馬シーンが見たかったという個人的欲★)

※熊本で編成された師団。また師団とは軍隊の編制単位で規模は旅団や連隊の上で軍の下。基本的に歩兵を中心として各兵科を合わせて構成。独立的に作戦ができる。

オープニング-騎馬
もう少し詳しく

5月13日第23師団長の命令により捜索隊と歩兵第64連隊の一部、満州軍の一部を加えた支隊が編成され出撃。大きな戦闘に至る事無く退却させる。その後満州軍をノモンハン付近に残し、支隊は帰還。
またここでは描かれていませんが、地上部隊とは別に飛行第10戦隊の第三中隊の軽爆撃機がモンゴル側の国境警備隊の包(パオ)を爆撃しています。

タイトル画面

タイトル下の国旗は左がモンゴル、右が満州国です。二国の国境争いを表しました。 その後左がソ連、右が日本陸軍旗に変わりますが、それぞれの後ろ盾であり、対立を表現しました。

またタイトル前の空撮シーンは、ノモンハン周辺を上空から描きました。

タイトル画面
タイトル画面

トラック移動

再度、モンゴル軍の越境があり再出動。このシーンは編成された支隊主力が移動している情景を描きました。

トラック移動
もう少し詳しく

5月20日に再び小競り合い。5月21日、師団より再出動の命令が出る。歩兵第64連隊、捜索隊、満州軍(それぞれ一部)の編成。ソ連軍は先の日本の動きに対し戦力を送っており、ハルハ河両岸に兵力を展開。

捜索隊移動

このシーンは再び出動した捜索隊の移動を描きました(捜索隊は騎乗の他にも、機関砲、機関銃、装甲車、トラック等もありますのでやんわり描写)。また陸軍の象徴である陸はこの捜索隊には加わっていないという演出も。

捜索隊移動

飛行隊出動

飛行部隊の出撃を描いています。登場している機体は九七式戦闘機といって、非常に優れた名機と言われています。

飛行隊出動

戦闘

支隊主力はソ蒙軍を囲むように展開しました。映像は支隊の一部に配備されていた速射砲(九四式三十七粍砲)です。

速射砲
もう少し詳しく

ノモンハン事件の従来からの印象の一つに火炎瓶による攻撃(火炎瓶を戦車に投げて燃やす)が上げられますが、実際一番敵戦車(装甲戦闘車両全般)に効果的だったのは速射砲です。速射砲は対戦車砲とも呼ばれ、命中率も高く威力を発揮しました。

航空戦

ノモンハン事件初期の航空戦において、日本は圧倒的な強さを見せました。
映像は日本の九七式戦闘機がソ連の複葉戦闘機に対し優勢に戦っている様子を描きました。

航空戦

ソ連装甲車

ソ連軍には装甲車や戦車が多く含まれていた事を表現しました。

ソ連装甲車

ソ連の砲撃

ここではソ連軍の強力な砲撃を描きました。ノモンハン事件全体を通して、日本軍はこれに非常に苦しめられます。

ソ連の砲撃
もう少し詳しく

ハルハ河左岸(モンゴル側)とハルハ河右岸(満州側)では高低差(平均すると50~100メートルの差)があり、モンゴル側からは満州側がよく見渡せたといわれています。高低差の低い満州側からは高台の様子を伺い知る事が出来ず、この高台に配備されたソ連軍の砲兵による強力な砲撃に日本軍は終始苦しめられました。

捜索隊の苦戦

ここでは捜索隊の苦戦の様子を描いています。この隊はその後全滅します。

捜索隊全滅
もう少し詳しく

捜索隊が全滅したのは戦闘が経過する中で孤立した事が要因と考えられます。捜索隊はソ蒙軍の抵抗をあまり受ける事なく、懐にはいるような形で布陣する事になったのですが、支隊主力に押され後退したソ蒙軍及びその増援部隊に挟まれ孤立してしまいます。援軍の要請はしていましたが、一部の隊がわずかに救援に駆けつけるのみで最終的には全滅してしまいました。

司令部にて

ここは敵の包囲網を脱出した捜索隊の下士官より苦戦及び援軍要請を聞くというシーンです。しかしこれを聞いた時にはすでに捜索隊は全滅しています。

司令部にて
もう少し詳しく

実際も捜索隊の軍曹が司令部にたどり着いて援軍を要請したのですが、返答が芳しくなく、軍曹がまた捜索隊に帰ろうとしたら、「さっき砲隊鏡で見たら最後の突撃をした所だから帰っても無駄である」趣旨を言われたというエピソードが残っています。砲隊鏡は動画内では陸の右側にある蟹目の双眼鏡です。

捜索隊が全滅した後は、夜襲と称して遺体収容をしています。この時ソ蒙軍はハルハ河左岸に退却していました。戦闘で日本軍に被害がでましたが、ソ蒙軍にも被害があり、また日本の援軍を危惧して撤退しました。日本軍には31日に撤退命令が出されました。




ここで一度ノモンハン事件に区切りがつくので、ここまでが第一次ノモンハン事件と言われています。
第二次に突入する前に、状況の整理と変化を少し。

日本軍は第一次ノモンハン事件の終了で、この一帯の紛争に区切りがついたと思い、軍を撤退させています。 しかし、6月はじめにはソ蒙軍は再びハルハ河右岸に進出し、軍備を増強していきます。 そして6月17日から数日ソ蒙軍による国境を越えての攻撃がはじまりました。

日本軍はそれに対し、攻勢に出ます。
「目標はハルハ河を渡り、敵を捕獲殲滅する事。」具体的には航空部隊による敵基地の爆撃と、ハルハ河を渡河し敵を捕獲殲滅するというものです。

そして6月19日。作戦が実行される事となります。

もう少し詳しく

ノモンハン事件(だけじゃないと思いますが)について多少知識がおありの方は、すでに日本側の一人の参謀の名前がずっと思い浮かんでいたと思いますが、その人こそ辻参謀。この攻勢作戦は「対外蒙作戦計画要綱案」としてこの辻参謀がまとめています。関東軍内でも攻勢に関して慎重論がありましたが、辻参謀が積極的に推し進めたとされています。


タムスク爆撃

ここではモンゴル側のタムスクという場所にあるソ連の航空基地を攻撃する様子を描きました。この作戦は、日本の攻勢の先陣を切るもので、6月27日に行われ、動画内では爆撃機の様子を主に描きましたが、この他に戦闘機による格闘戦も行われ戦果を挙げます。

また、ここでは後に挺進兵となるキャラクターが登場します。挺進兵は後に航空科から派生していくので、ここでは航空兵として重爆撃機に乗っていただきました。

タムスク爆撃
タムスク爆撃2

憲兵隊の活動

このシーンは無線を使いソ連側のスパイを検挙するというイメージです。憲兵は軍事警察としての任務の他にも、軍の作戦に関わる任務がありました(多岐に亘るのでここでは割愛)。

憲兵隊の活動

ソ連側の動き

すこし経過が前後してしまうのですが、ここではソ連側の軍備増強について描きました。

第一次ノモンハン事件終了後、ソ連は戦況が芳しくなかったという事で、先を見据え大幅に軍備の立て直しを行います。

その指揮をとるのがジューコフというその後ソ連の英雄となる軍人です。

ジューコフによる先の戦いにおける自軍の評価は非常に辛口で、人事においてもかなり厳しく処罰しています。そして軍備の増強に関してモスクワのスターリンはジューコフが要求する以上の軍を送ってきます。映像で地図がスライドしていくのはこの辺りをなんとなくイメージしました。

軍備に関して、戦車や装甲車の数というのはこれまた凄いのですが、その他に航空部隊の増強が大きく上げられます。第一次でかなり日本の航空部隊にやられたので、旧式の戦闘機を新型にし、熟練搭乗員を連れてきて訓練させる等、立て直しに非常に力を注ぎました。

ソ連の動き
ソ連の動き2
モンゴル騎兵
ソ連の動き

新鋭機イ16

日本陸軍の動き

タムスク攻撃が一定の成果をあげ、次はいよいよ地上部隊によるハルハ河渡河作戦に移ります。

日本軍はここにきて虎の子の戦車隊を投入します。
またその他にも歩兵・砲兵・工兵が派兵されました。
いずれも戦地への移動に苦労しますが、中でも歩兵の行軍は壮絶で…、先方隊こそ車載輸送でしたが、その他は徒歩で戦地に向かう事になります。完全武装(30キロ~50キロ)で、なおかつ水も満足にない状況下で何日も歩いて戦場に向かいました。

そしていよいよハルハ河の渡河作戦ですが、紆余曲折の末実行されます。

代表的なのは7月2日から行われた戦いです(そこに至るまでほんとに色々ありますがっ…!)。戦局は大きく二つ。一つはハルハ河右岸で行われた戦いと、もう一つはハルハ河左岸で行われた戦いです。


映像では、作品のキャラクターとして戦車兵、歩兵、渡河する為の橋をかけた工兵を描きました(工兵の架けた橋は舟橋といって、舟を連ねて作った橋です。またここではキャラクターとしての砲兵は登場させていません。この作戦には参加していない設定。)

一方日本の航空部隊のキャラクターも映像として出しましたが、こちらはハルハ河両岸で行われた作戦において、地上部隊との協同が薄く、割と独自で攻撃していたという…。

この作戦に参加した人数は総勢2万人とも言われています。

日本陸軍の動き
日本陸軍の動き
日本陸軍の動き
日本陸軍の動き
日本陸軍の動き

渡河作戦-戦闘-

ここでは戦闘を描きました。

多少語弊があると思いますが、わかりやすくするために二つの戦局の、中心的な戦力をざっくり書きますと、「右岸の戦車隊」「左岸の歩兵」となります。

まずは戦車隊ですが、河を渡らず、右岸に展開されている敵兵と戦う事になります。戦車部隊も連隊によって行動が分かれるので、詳細は割愛しますが、戦車隊は猛然と敵陣地に突入し犠牲を払いながらも前進します。(敵砲兵の砲撃に晒されながらも砲兵陣地を蹂躙したり、豪雨の中夜襲をかけたり等々)

一方左岸は、7月3日早朝に渡河を開始します。この渡河作業も本当に大変でして…映像では橋を渡っていますが、この橋が出来る前は舟で渡ってます。

遅延しがちな渡河でしたが、順次部隊は左岸へと渡っていきます。そこで大激戦となるわけですが、ここでも威力を発揮したのは速射砲です。次々とソ連軍の戦車や装甲車を炎上させます。

また、砲兵による野砲の射撃も続き、炎上させた敵戦車群は三桁を越えたと言われています。そしてそれらが炎上する光景たるや八幡工場地帯(色んな所から煙が轟々とあがっている状態)と表現されました。また、この他に肉迫攻撃班による破壊活動もありました(生身の人間が戦車に近づき火炎瓶や手榴弾、戦車地雷を投下する等…)。

しかし、この状況も長くは続かず、なおも続々と出現するソ連軍の戦車群らの攻撃に日本軍は左岸への退却を決意します。

退却は非常に緊迫したものでした。軍橋は工兵が架けた橋一つしかなく、更にソ連軍の砲撃や航空機による空爆や掃射に晒されます。橋を守る攻防も壮絶を極めました。

最終的に5日、舟橋は工兵の手により爆破し、渡河作戦は失敗に終わります。



航空部隊の戦闘ですが、ソ連軍の航空部隊の増強によりこれまでのような圧倒的な強さを見せる事ができなくなっていました。

映像では、手前の戦闘機こそ撃墜していますが、遠方には逆に撃墜される日本機を出し、空戦における戦況の変化を表現しました。

第二次ノモンハン-戦闘1-
第二次ノモンハン-戦闘2-
第二次ノモンハン-戦闘3-
第二次ノモンハン-戦闘4-

渡河作戦後 -日本軍戦車隊の撤退-

ここは戦車兵に対して撤退を言い渡すシーンです。
日本陸軍にとって戦車隊は先にも言いましたが虎の子です。
この戦車隊は勇敢に戦うも、右岸での戦闘で多くの被害を出した為、これ以上戦車隊を失う事ができないとの判断で撤退が決まります。

悔しさを滲ませた戦車兵が回想をしていますが、映像に出てくるワイヤーの様な線はピアノ線といい、これは戦闘中に敵兵がこのピアノ線を撒き、これがキャタピラに絡まって、戦車が動けなくなり、そこを狙い撃ちされたというエピソードを暗に表しています。

戦車隊の撤退1
戦車隊の撤退2

砲兵戦に向けて

実は先の戦車兵撤退前に、一つの戦局が経過してます。動画の尺の関係上その描写は描けなかったのですが、それは左岸に渡った歩兵が右岸に戻り、右岸の日本軍残存兵力と共に、7月6日以降右岸に残るソ蒙陣地を襲うという作戦です。

しかしまたもや左岸の高台からの砲撃に苦しめられます。

主に歩兵による連続夜襲攻撃が行われ、勇敢な歩兵により、一定の成果を出しますが、12日には後退命令がでます。

その命令がでる要因となったのは次なる作戦、日本陸軍砲兵による大砲兵戦です。

映像では歩兵と陸が話をしていますが、説明すると歩兵が夜襲は行わない(続行しない)のかと問いかけ、陸は後退を命じます。そして砲兵を呼ぶといった感じです。

キャラクターの砲兵は大砲兵戦の為に呼ばれ、この作戦からノモンハン事件に参加する事になります。

砲兵戦に向けて
砲兵戦に向けて
もう少し詳しく

連続夜襲によるソ蒙軍の被害は大きかったと考えられています。(ソ蒙軍では一時左岸への退却命令がでるほど。実際には退却していませんが、かなり状況がよくなかったと推測できます)

大砲兵戦

キャラクターの砲兵が率いてきたのは重砲兵です。(砲兵が扱う大砲も色々種類があるのですが、重砲は特に威力のあるデッカイ大砲です)
わざわざ日本から来た最新鋭の砲兵隊で、まさに虎の子その2。

この最新鋭の砲兵隊を中心に、満州にいた他の砲兵隊も合わせて砲兵団を作ります。これでいよいよ左岸高台のソ連砲兵を黙らせようというわけです。

7月23日朝に攻撃開始。
思いっきり撃ちまくり、その轟音や砂塵はすさまじいものだっといいます。そして砲兵が撃ちまくった後に、歩兵が再び前進するのですが…。


「アレ…?敵の砲兵…衰えてないぞ…」となります…


それもそのはず。相手は高台なので陣地を特定できず、決定打を与える事ができませんでした。

大砲兵戦

野砲兵第十三連隊の「三八式野砲」

大砲兵戦

野戦重砲兵第一連隊の「九六式十五糎榴弾砲」

観測気球撃墜

敵の様子を伺うため25日に観測気球も飛ばしたのですが、これも撃墜されてしまいます。

結局7月23日から行われた砲兵戦は25日弾切れで終了します。

観測気球撃墜
もう少し詳しく

日本軍の肝いりで行われた大砲兵戦でしたが、残念ながら効果の薄いものでした。 地理の不利が克服できなかったのと、弾が少なかったのが主な要因です。

第六軍創設

砲兵戦のあとしばらく戦況が落ち着きます。
その間日本軍では組織変更がなされ、第六軍という中間指揮組織ができます。

映像説明をすると第六軍の司令官が視察に来てその後、後方の都市に戻るというイメージです。
映像内で出てきた肩章の階級は「中将」。第六軍の司令官を意味します。また「6A」というのは「第六軍」という意味です。(「A」は軍隊符号(軍隊の略字表記)において「軍」をあらわします)

第六軍創設
もう少し詳しく

第六軍創設に当たっての諸々は割愛しますが、結果不首尾…と言えると思います。戦況が落ち着くといっても、直接的に大きい衝突がなかったというだけで、ソ蒙軍は八月に大攻勢を計画し、着々と準備をしていました。日本軍にはそれを悟られないように工作もしていました。第六軍はそんな中創設された訳で、諸々が中途半端で結果日本軍の注意力を削ぐ結果に繋がったと思います。

ソ連八月攻勢

8月20日、快晴であったといわれています。
この日ついにソ蒙軍の大攻勢が開始されました。

映像ではざっくりですが大量の装甲車や戦車を映して大攻勢の様子を表現しました。

ソ連八月攻勢

ソ連八月攻勢-戦闘-

ここでは戦場を表現しました。
戦局の一つ一つ解説すると大変な事になるので、ざっくりと流れを書きます。

8月20日からのソ蒙軍の大攻勢の目標は、日本軍を包囲し個々に壊滅させ、ハルハ河東方の国境ラインを確保する事でした。

それに対し、日本軍は善戦し猛抵抗しますが、ソ蒙軍の波状攻撃と、更には師団長からの無謀な反転攻勢命令により、防御のバランスが崩れ、最終的に敗退します。8月末には戦闘は終了し、ソ蒙側は主張する国境ラインを回復する事になりました。

ただここで主張したいのは、日本軍は敗退はしましたが、とにかく現場の部隊は頑強に抵抗を続け、果敢に戦った事は間違いありません。



補足として映像の一部を解説しますが、まず砲兵の所、砲兵は基本的に後方から攻撃し、接近戦に対する術はないのですが、ここでは既に敵戦車が猛然と間近に迫っている様子を描いています。目を凝らすと分かるかもしれませんが、大砲の角度が水平になっています。これは目の前の戦車を重砲で撃っています。重砲の威力はすさまじいので目の前の戦車は吹っ飛びます。ただ、弾を撃ちつくした後は大砲と運命を共にする砲兵が多くいました。

次に工兵の所ですが、これは敵戦車によじ登り、ハッチをあけ、中に手榴弾を投げ込むというシーンです。工兵隊でも肉迫班が組まれ、身を危険にさらしながらも戦いました。

そして最後に陸軍の象徴である陸が目を閉じようとしています。 これは、この戦いが劣勢的な終わり方をした事を表しています。

ソ連八月攻勢-戦闘1-
ソ連八月攻勢-戦闘2-
ソ連八月攻勢-戦闘3-
ソ連八月攻勢-戦闘4-




日本軍が敗退し、ソ蒙軍が国境を回復したこの時点でノモンハン事件における大きな戦闘は終了します。

映像では主に戦闘状況を追って表現しましたが、その裏では諸外国との色んな駆け引きがありました。はじめにも書きましたが、日中戦争の泥沼化はもとより、三国同盟に向けた動きや、米英との関係でバタバタしていました。

ソ連においても同様で、特にドイツとの関係が大きく影響しています。ソ連はドイツとの間に「独ソ不可侵条約」というのを8月23日に締結します。
もともと日本がドイツと組んで、ソ連を挟み撃ちしようとしていたわけですが、ドイツが一転ソ連と不可侵条約を結んでしまいます。これで日本は大混乱するわけですが、ヨーロッパの外交は狡猾で、ソ連としてはその後第二次世界大戦に繋がる、ドイツのポーランド侵攻、そしてソ連軍のポーランド進駐を視野に入れていました。

その後ですが、日本とソ連は停戦に向け、外交交渉へと移ります。が、戦闘のすぐ後ではソ連の方が有利であり、交渉はスムーズには行きませんでした。

最終的に停戦は9月15日に成るわけですが、それまでにも色々と動きがありました。



997高地の戦闘

映像はじめの「997」は997高地というエリアを意味します。

これは停戦前の局地的な戦闘の一つで、9月7日、ソ蒙軍が守る997高地に日本軍が夜襲をかけ、高地を占領、翌8日に敵砲兵と戦車群による反撃にあい、大きな被害を出すも、日本軍がここに進行した証をその場に埋めるというシーンです。

997高地の戦闘

こういった証を十数個埋めたという

1031高地の戦闘

映像はじめの「1031」は1031高地というエリアを意味します。

これも停戦前の局地的な戦闘の一つで、9月11日、日本軍が1031高地を占領しました。

騎馬は、日本軍の襲撃に混乱したモンゴル騎兵を表しています。

1031高地の戦闘

攻勢は吹雪の中

不屈の日本陸軍

ソ連の8月攻勢で一度は敗走した日本陸軍ですが、停戦交渉に移る最中も反撃を目論んでいました。

戦闘

師団の集結

映像内の「D」というのは軍隊符号「師団」を意味します。なので「D1」というのは第一師団となります。

日本陸軍は攻勢計画を練り、第六軍の元に各地から師団を集結させます。
映像で次々と出てきたDの数字は集められた師団です。(但し師団内の一部が参加の場合もあり)人員はソ連軍を上回ったというので、映像的には大軍がひしひしと控えてる感じをイメージしました。

9月はじめには第六軍から各師団へ攻勢計画が伝達されていましたが、最終的に停戦協定が成立し、この反撃攻勢は行われませんでした。

しかし、この師団の集結こそが、停戦協定に至る要因だったと考えています。

戦闘
戦闘
もう少し詳しく

ソ連側は日本の攻勢規模を知り、ヨーロッパ情勢が緊張している最中、これ以上の長期戦は回避したいので停戦協定に応じたものと考えられます。

捧げ刀

クレジット画面右下は、その後ノモンハン事件で亡くなられた方の慰霊祭壇に向かい、捧げ刀をしている様子を描きました。

終戦後このような事が行われたので描いたのもありますが、今回ノモンハン事件をテーマに動画を作ったので私自身の慰霊の気持ちも込めました。

戦闘

その後の国境画定

停戦交渉の際、お互い最終的に占領している所を停戦時のラインとし、国境画定には更に2年の時間を要しました。国境は大体ソ蒙側の主張するラインになりましたが、停戦前に占領していた所など一部は日本と満州側の主張が反映される事になりました。



まとめ

ノモンハン事件は、はじめにも書きましたが、ソ連側の資料が新たに公開された事により、評価が変わりつつあります。ソ蒙軍の損害が日本以上の可能性があるという事で、日本が勝っていたのではという風潮もあります。


非常に評価の分かれる戦いですが、ノモンハン事件が国境争いである事から、最終的な国境ラインがソ蒙側に有利になっているのを見ると、やはり日本側が負けたと感じざるをえません。


ただ、私は負けたといってもソ連側に強烈な印象を残したと考えます。ソ連のジューコフ将軍(最終的に元帥にまで登りつめた英雄)が戦後、記者に一番苦しかった戦いを聞かれた時に、「ハルハ河事件(ノモンハン事件)」と答えたというエピソードが残っています。ソ連側の内情もあったかと思いますが、非常に印象に残った戦いであった事は間違いないと思います。


また、ノモンハン事件の後、日本は太平洋戦争(大東亜戦争)に突入し、北にいた兵も南へ送られる事が多くなりますが、そんな状況でもソ連軍が終戦ぎりぎりまで南下してこなかったのは、日本兵の強さがあったからではないかと私は考えます。(日ソ中立条約もありましたが、それが理由にはならないと思います)


最後に、今回ノモンハン事件を描くにあたり、実際に参戦した方のエピソードも色々拝見しました。読む度に涙が流れるほど壮絶で、戦場は人間の尊厳などない地獄のような所だと改めて感じました。動画は短く、また表現も甘い所が多々あると思いますが、これをきっかけにノモンハン事件について、またノモンハン事件で力を尽くした方々に少しでも思いを馳せて頂けたら幸いです。