年表 - 明治

明治編。明治になると陸・海・大佐以外にも登場しますが、全部のキャラが完成してないので現状記載は3人のみ。今後追記していきます。年表の月は明治5年まで旧暦、それ以降は新暦です。また見た目年齢を書いてある所もありますが、人と同じような年の取り方をしないので、あくまで目安です。また、「キャラの動き」は戊辰戦争後、大きな出来事以外書いてません。

 
▼年号(西暦) ▼月 ▼できごと ▼キャラの動き ▼補足
明治元年
(1868年)
3月 観艦式大阪天保山沖にて。日本で初めての観艦式 【陸・海・大佐】大阪へ 主に西側の藩の船を集めて行う。日本で初めての観艦式なので三人で出席。陸は「わー☆すごいねー」状態だけど、海と大佐は「開陽丸」や鉄張りの新型軍艦「ストーンウォール号」が居ないので正直物足りない。

「開陽丸」は旧幕府軍の手にあり、「ストーンウォール号」は元々幕府が注文した船で、横浜に居るが外国が中立宣言を盾に売ってくれない。
5月 上野戦争戊辰戦争の一つ。政府軍と彰義隊(反政府勢力)との戦い 【陸】上野戦争へ 陸、大村益次郎に随行。

上野(東京上野うえの)が反政府軍の拠点となっていたので、政府軍は大村益次郎(近代兵制の創設者。つまり天才)を派遣。その指揮のもと西郷隆盛らを率い、集中砲撃をもって一日で敵を壊滅させる。上野は焼け野原に。

旧幕府軍との力の差を見せ付け、政府軍に懐疑的であった諸藩や民衆に大きな影響を与えた。
5月~ 東北戦争戊辰戦争の一つ。政府軍と東北諸藩との戦い 【陸】東北戦争へ 戦火は東北へ。陸、政府軍と共に東北平定に向かう。

会津藩(旧幕府支持の筆頭)の断固たる交戦姿勢を受け、東北諸藩は手を組み政府に対抗。しかし政府軍の勢いに押され、徐々に降伏していく。会津藩では白虎隊に代表されるように悲劇的な最期を迎える。

9月、旧幕府側の雄、会津藩・庄内藩降伏。
明治2年
(1869年)
3月~ 函館戦争(宮古湾海戦~)戊辰戦争の一つ。蝦夷地に仮政府を樹立した榎本武揚率いる幕府海軍をはじめ、幕府陸軍、新撰組、彰義隊等の反政府軍との戦い 【陸・海】函館戦争へ 海「ストーンウォール号」で北上。
(政府は外国に局外中立の廃止を要請し「ストーンウォール号」を手に入れる)

しかし元々「ストーンウォール号」が欲しかったのは旧幕府の榎本であり、宮古湾海戦では「ストーンウォール号」乗っ取り攻撃を受ける。榎本側の失敗に終わるが、海は衝撃を受ける。(乗っ取りなので敵が直接船に乗り込んできて戦闘になる)

その後海陸それぞれ局地戦を経て、5月15日、政府軍による海陸呼応しての五稜郭総攻撃。17日榎本降伏。戊辰戦争が終わる。

戊辰戦争までの戦は、あくまで随行という形。間近で戦闘を見るが、直接参加はしていない。

まだ年少の身という事もあるが、これまでの政府軍は諸藩の集合体なだけであって、生粋の国軍じゃないから。

これ以降、やっと一つの国として国づくりが始まり、それと共に国軍が整えられていくのである。
6月 招魂社後の靖国神社。大村益次郎が創建に関わる。当初は戊辰戦争における官軍側の戦没者を祭るためのものだったを建立
6月 版籍奉還藩が土地(版)と民(籍)を朝廷に返す 藩はそれぞれ、独立国のようなもの。それじゃ国としてまとまらないので、土地と人を朝廷に返してもらい、中央政府の政治がしやすいようにした。

政府のメンバーは主に薩摩藩と長州藩出身で構成されている。権力の独占により、以後批判の元となる。(藩閥政府)
7月 兵部省今で言う防衛省ができる 国軍として海陸軍の兵制をどうするかという議論はすでに6月から始まっていた。そこで大村益次郎ら大村派と大久保利通らの大久保派で対立する。大村は長州、大久保は薩摩ということで、概ね薩長がにらみ合う形になる。

大村は大阪を中心とした国民皆兵を主張し、陸軍を優先すべきという考え。一方大久保派は東京に藩兵を集め親兵とする事を主張、そして海軍優先という考えであった。
9月 大村益次郎襲撃される 陸はこの頃大村益次郎に近い所に居た為、ショックと衝撃を受ける。

陸軍の創始者とも言われる大村益次郎。戊辰戦争が終わったとはいえ、国内はまだまだ平穏ではなかった。大村を快く思わない輩に襲われ重傷を負い、11月、志半ばで倒れる。
11月 海軍操練所場所は東京築地。後の海軍兵学校で授業開始 【海・大佐】東京へ 施設は9月に創設。大村派は海陸共に大阪に兵学寮を作るつもりだったが、大久保派は東京築地に急いで作り既成事実とする。しかし授業を開始したはいいが、生徒が集まらず、翌3年1月に始業式。
明治3年
(1870年)
4月 天覧演習明治以降最大規模。参加は1万人余り。 【陸】東京へ 陸は参加。海と大佐は観覧。

構成は藩兵。その後の御親兵に繋がる。
5月 陸、大阪兵学寮 幼年学舎元々京都にあった兵学所が大阪へ移転。施設は前年の11月頃にできているが、幼年学舎ができたのが5月 【陸】大阪へ 大阪兵学寮は青年と幼年が分かれているが、陸は幼年学舎へ。大体見た目13才位(海・大佐も同様)。

11月には陸軍兵学寮と名前がかわり、その後青年学舎は陸軍士官学校に、幼年学舎は陸軍幼年学校となる。大阪に作ったのは大村益次郎の意思を受け継ぎ、大阪を拠点に軍事施設を充実させようとした大村派の頑張り。
10月 陸、留学 【陸】フランスへ 1人のフランス人教師の帰国に伴い、大阪兵学寮から第一期留学生が派遣される。陸も行く事になった。

横浜からフランス船で出航。この時海と大佐に見送られる。
11月 【海・大佐】海軍兵学寮・幼年(予科)生徒に制度として青年と幼年に別れたので、幼年(予科)へ。人材を選りすぐり全寮制になる。名称も海軍操練所から海軍兵学寮に変更(大阪兵学寮も陸軍兵学寮に)。場所はそのまま。 この頃すでに、お互い相手が若干気に食わなくなってるという。大佐の渡航経験、海の戦歴、この差が態度に出る。
明治4年
(1871年)
2月 海、留学 【海】イギリスへ 東郷平八郎らと共にイギリスへ。イギリスに数年滞在後アメリカへ。アナポリス海軍兵学校に入学する等海外で修学。

前年留学した陸はフランスにいるので、たまに会ってたかもしれない。

アナポリス海軍兵学校は世界三大海軍兵学校の一つ。他はイギリスのダートマス海軍兵学校と日本の海軍兵学校。
2月 御親兵陸軍最初の正規軍。藩兵を集め親兵とするを編成
7月 廃藩置県大改革。明治2年に行った版籍奉還では、藩主が知藩事として変わらず旧領を管理していたので、中央集権が不完全だった。なので藩ごと廃止して、中央の権力をより確実なものに 軍制においては藩兵が解体され、兵権が政府に移る。これで陸軍の基礎が整い、徴兵制に繋がるのである。

ただ改革が余りにも急激で、大量に失業した士族や民に対する処遇が不十分だった。
8月 兵部省、4鎮台4鎮台(東京・大阪・鎮西・東北)を置き、兵部省内に陸軍部・海軍部を設ける 鎮台は常設軍のこと。まだ徴兵令が発動していないので、元藩兵による職業軍人で構成。
10月 岩倉使節団国の重要メンバーがこぞって外遊。欧米の先進的な文化に触れ、日本の近代化に大きく貢献する事になるを編成
12月 陸軍兵学寮、東京へ移転
明治5年
(1872年)
2月 兵部省を廃止して、陸軍省・海軍省ができる
3月 近衛兵を設置
4月 フランス軍事顧問団来日幕府時代に引き続きフランスによる伝習。幕府時代に来日したメンバーも複数含まれている
12月 陸、帰国 【陸】帰国 陸軍省が新たにフランスへ留学生を送る。入れ替わるように陸帰国(本当はもっと居たかったけど、翌年に徴兵令を控え国内の軍制が大きく変化している時なので一旦帰国)、陸軍兵学寮へ。
明治6年
(1873年)
1月 徴兵令男子17~40才。3年間は常備軍として営内で兵役。大村の悲願であった徴兵令が実現発布・6鎮台6鎮台(東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本)に増える 徴兵された人は、各鎮台に入営。徴兵令の実行により、新生陸軍の基盤が固まる。

しかし士族は武士の特権が奪われると反発し、民衆は兵役によって働き手が奪われると反発。
8月 イギリス海軍顧問団まだまだ未熟な海軍なのでイギリスに頼み込んで派遣してもらった。派遣されたのは総勢34名。兵学寮生徒だけでなく、海軍省の首脳陣や艦長に対しても教育が行われるによる教導開始 イギリス人教師により、海軍兵学寮の雰囲気が一転(それまで割りと荒々しかった)。海軍ならではのスマートさはこの辺りから徹底されはじめる。ただ大佐は既にスマートだったので、同期の荒さを陸に愚痴っていたと思われる。
10月 征韓論鎖国している朝鮮に対して武力も辞さず開国を迫ろうという議論。新政府は発足後、使者を送っていたが断られているを巡り、明治政府が真っ二つに割れ、西郷隆盛が政界を去る 西郷は初めての陸軍大将(陸軍のボス)。人格者で人気があり、陸も慕っていた。なので非常にショックをうける。

岩倉らが外遊している間に政治を率いていたのは西郷隆盛であった。しかし帰国した外遊組(岩倉具視・大久保利通ら)とお留守番組(西郷隆盛・板垣退助ら)で対立。西郷隆盛は自身が使者となり朝鮮に行くと主張したが、戦争になると反対される。これをきっかけに西郷隆盛は辞職。板垣退助等、西郷の後を追い辞職する人が続出。

これ以降、政治はより一部の人が行う事になり反発が起きる。そして中央に西郷無き後、士族による反乱が増える。
明治7年
(1874年)
2月 佐賀の乱士族の反乱。強硬な征韓論や中央政府に反感を持つ士族が政党を作り、佐賀で蜂起が起こる 【陸・大佐】佐賀へ 佐賀の乱で初めて鎮台兵が出動する。大佐も海軍として参加、初陣。しかし佐賀藩士を中心とした反乱なので大佐にとってはなんとも複雑である…。
4月~ 台湾出兵これより前に琉球人が台湾の民族に殺害されるという事件が起こっており、これを理由に出兵。実情は士族による反発が大きくなってきたので、対外戦争を起こし目をそむけさせる事と、琉球(沖縄)を完全に日本の領土にする為 【陸・大佐】台湾へ 初めての外征。戦闘よりマラリアなどの感染症に悩まされ多くの被害がでた。
明治8年
(1875年)
2月 陸軍士官学校市ヶ谷台に開校。兵学寮から独立する形1期入校 【陸】陸軍士官学校へ 既に兵学寮で青年過程に入っていたが、改めてこっちで1期生。大体見た目16歳位(他の2人も同様)。学歴や戦歴はずば抜けているが、象徴なので全ての兵科に精通せねばならず、その点他の人と違う。
9月 江華島事件日本政府が行った朝鮮に対する挑発行為。朝鮮半島海域の測量を名目に軍艦を派遣。軍事的圧力を加える
明治9年
(1876年)
2月 日韓修好条規日本が朝鮮政府に押し付けた不平等条約調印 【陸・大佐】朝鮮へ 大使・黒田清隆に随行。交渉を見守る。軍事力誇示の意味合いも。

1月、日本側は軍艦5隻で江華島へ赴き朝鮮側と交渉。日本側は交渉が決裂した場合、武力行使も辞さないという構え。かつてペリーから受けた手法をそのまま朝鮮に対して行ったのである。
3月 廃刀令 一連の朝鮮との問題で、一時的に国内の不満を外に向ける事ができたが、廃刀令で再び士族が怒る
6月~ 東北巡幸天皇の威厳を誇示する為東北へ 【陸】東北へ
8月 秩禄処分秩禄(給与)の支給をやめる事 これまでは、士族に対して政府が給料を出していたが、財政難だったので打ち切る事に。これと同時に「金禄公債証書」というお金のように使えるものを当面の生活費として渡したが、廃刀令に続く処置に士族の怒りが頂点に達する。
9月 海軍兵学寮を海軍兵学校に改称
9月 東海鎮守府海面を東と西に分け、それぞれ鎮守府を置くことに。ただ西海鎮守府は長崎に作る予定だったが結局実現しなかったを横浜に設置
10月~ 神風連の乱熊本にて萩の乱山口にて秋月の乱熊本にて ずっと燻っていた不満が、廃刀令・秩禄処分と続いた事で爆発。士族による反乱が連鎖して起きる。熊本・広島鎮台の兵により鎮圧。
明治10年
(1877年)
2月~ 西南戦争政府が一番恐れていたのは下野した西郷だった。帰郷した西郷は学校を開き軍事教育に力を注ぐ。その規模が大きくなるにつれ、政府の威信が届かなくなった。それは士族や農民らの反政府分子の希望となったが、政府に疑念を抱かせる事に。そして看過できなくなった政府側の挑発により、決起に追い込まれる。政府は警察まで動員し鎮圧。西郷は9月の戦闘で被弾しその後切腹。 【陸・大佐】西南戦争へ 西郷を慕う陸にとって最悪の事態。戦う前から傷心極まりないが、自ら戦場に立ち戦闘に参加。大佐も海軍主力を率いて協力。戦死者は両軍合わせて1万3千とも。

西郷は明治天皇をはじめ、本当に多くの人に愛された人物。まさに巨星。

西南戦争によって官軍側の未熟さが露呈したが、沢山の教訓を得ることになった。また勝利した事により、主に百姓で構成された徴兵軍が士族、武士に勝つという、徴兵制の効果を実証する結果にもなった。(ただ実際は官軍にも職業軍人が多く含まれている)

余談:陸自や警察で現在も使われる「陸軍分列行進曲(抜刀隊)」は西南戦争が題材。なので歌詞にでてくる「敵の大将」は西郷隆盛である。
明治11年
(1878年)
5月 大久保利通暗殺薩摩藩出身。政治手腕を振るいまくった大政治家で西南戦争が終わった後、これからだという時に士族の手で暗殺されてしまった
7月 陸、再びフランスへ留学 【陸】フランスへ 前回一次帰国した為、行けなかったサン・シール士官学校日本の陸軍士官学校のモデル校ともへ。その後ソミュール騎兵学校に入学
8月 竹橋騒動東京の近衛兵による革命的反乱 遂に中から反乱がおきてしまう。反乱は失敗し、53名が処刑。その数は後年の2.26事件より多い。反乱者は自由民権運動に影響されていたとも言われている。
10月 軍人訓誡軍人が守るべき軍人精神が書かれている。その後の「軍人勅諭」に繋がるを配る 竹橋騒動の影響を受け、急いで配る。天皇に対する忠誠や政治関与の厳禁など書かれている。
11月 大佐、留学 【大佐】イギリスへ 11月末横浜から出航。 英艦艇乗組等を経て、明治15年から1年間、王立海軍大学(グリニッジ)へ

王立海軍大学には明治15年頃から日本人の入学が許されるようになった。宮殿を改装し学校になったという圧倒的に美しい学校。大佐感激。現在はグリニッジ一体が世界遺産。
12月 参謀本部陸軍省から独立。軍令(実戦に関しての諸々、作戦とか)と軍政(軍に関してのお役所的な所、人事とか予算とか)が分かれることになるを設置 その後の太平洋戦争(大東亜戦争)で問題となる、統帥権の独立である。統帥権というのは軍隊の最高指揮権。これを行政から分離し、天皇直下に置くことで内閣に影響されない軍事行動ができるのである。

独立した事情としては、反政府勢力が政治に進出してくる事を見越し、陸軍の行動を制限されないようにする為。

参謀本部長は山縣有朋で、山縣はその後陸軍の権力を掌握し、政界にも進出。山縣閥を作り強大な力をもつに至る。
明治12年
(1879年)
12月 海、帰国 【海】帰国 6月に卒業後、イギリス・フランスを周遊して帰国。

フランス周遊時に陸に会い、旧交を温める。積る話も多くしばし滞在。お互い成長して落ち着き始めているが、海は陸が若干影が差したように感じる時があった。
明治13年
(1880年)
明治14年
(1881年)
3月 憲兵制度軍隊の警察をメインに、行政・司法警察も兼ねるを創設
9月 陸軍、四将軍上奏現役陸軍将校による政府批判。「軍人訓誡」の禁制に触れる行為 世間ではかねてより政府に対して多くの批判があったが、陸軍内部から出た事が大事件である。そしてこれは暗に陸軍内のフランス派とドイツ派の対立の様相。四将軍は反山縣派であり藩閥政治に批判的であった。

この後陸軍内部のフランス派が排除され、ドイツ派が占める事になる。
10月 自由党征韓論で西郷と共に下野した板垣退助が、自由党を結成の誕生 自由党誕生後も次々と自由民権派による政党が誕生。自由民権運動とそれを封じ込めたい政府の対立が激化する。
12月 陸、帰国 【陸】帰国
明治15年
(1882年)
1月 軍人勅諭 自由民権運動が軍隊に影響しないよう、忠節を守れと軍人に要求。前年の現役陸軍将校による上奏も大きく影響していると思われる。
7月 壬午事変日本と清との間に挟まれた朝鮮の内乱。攘夷・親清派と開国・親日派で対立。親清派がクーデターを起こし日本人軍事顧問・公使らを殺害。清が鎮圧 【陸・海】朝鮮へ 陸・海、日本公使に随行。

日本人が多数殺された事により、日本側は陸海軍を派遣。8月、朝鮮と済物浦条約(首謀者の処罰・賠償金・公使館護衛兵駐屯の許可等)を結ぶ。清との対立が高まる。
明治16年
(1883年)
4月 陸軍大学校開校参謀・高級将校を育てる機関。より選りすぐりのエリート学校。陸も陸軍大学校を卒業している
11月 鹿鳴館、開館 陸・海・大佐あたりは鹿鳴館に行ったかもしれない(舞踏会が好きということではなく、外国の軍人もいるので外交的な意味合い)。
明治17年
(1884年)
2月 陸軍欧州視察団、出国2月横浜を出発。軍制改革調査の為、欧州視察 【陸】主にドイツ この視察は軍制をフランス式からドイツ式に変える大きな基点となる。

また前年には伊藤博文らも欧州視察に向かい、憲法や法律の面でもフランス式からドイツ式へ変更されつつあった。同時期に政府と陸軍の制度がドイツ式に向かう事になる。
12月 甲申事変再び朝鮮で内乱。改革・親日派が日本公使館の援助を受けクーデターを起こすが清によって鎮圧。朝鮮において清の支配力が強くなる 甲申事変の失敗を機に、福沢諭吉が「脱亜論」を発表。それまでのアジア連携論から転換。
12月 東海鎮守府を横須賀に移転、横須賀鎮守府に改称
明治18年
(1885年)
1月 陸軍欧州視察団、帰国 【陸】帰国 欧州視察を機にドイツへ気持ちが向くようになる。
3月 陸軍大学校にてドイツ人将校の授業がはじまるドイツ人将校メッケルにより、主に参謀学が教授される事になる 【陸】陸軍大学校へ 陸、メッケルの講義で戦術教育を受ける。

この時士官学校ではフランス人による授業が行われており、仏独同時進行で教育されていた。
4月 天津条約締結壬午事変・甲申事変と朝鮮をめぐって日清が対立していたので、関係を改善するため条約を結ぶ
明治19年
(1886年)
3月 参謀本部条例参謀本部内に陸軍部と海軍部を作る 陸海軍の用兵を一つにまとめるという素晴らしい構想が実現。しかし参謀本部長(トップ)が皇室だけど陸軍なので、海軍が対等じゃないとご不満(なので勿論長く続かない)。それ以前に海軍が参謀本部を持つ事に陸軍が反対。
4月 海軍条例海面を5海軍区に分け、各区に鎮守府を置くと制定(鎮守府名はその土地の名前とする)。この時既に横須賀だけは開庁している 鎮守府は所轄の海軍区の警備や、艦艇の後方支援をする所。

海軍区は第1区(東北から三重)、第2区(和歌山~九州東海岸)、第3区(北九州~九州西海岸・沖縄)、第4区(日本海側)、第5区(北海道・津軽海峡)。

後にそれぞれ、第1区横須賀鎮守府、第2区呉鎮守府、第3区佐世保鎮守府、第4区舞鶴鎮守府となる。第5区には鎮守府を設置せず、その後大湊に順ずる施設を作る。
明治20年
(1887年)
1月 陸、ドイツ留学 【陸】ドイツへ 1月横浜を出航。乃木希典らとともにドイツ軍について学ぶ。
明治21年
(1888年)
5月 師団司令部条例鎮台を師団に 
陸軍・海軍参謀本部条例参謀本部長を参軍とし、その下に陸軍参謀本部・海軍参謀本部を置く。しかし参軍となった事で形式的な役職になってしまい、陸海軍の参謀本部が分離する形に。翌年3月に海軍の方は海軍参謀部となり海軍省に出戻る。再び参謀本部は陸軍だけのものになった
各師団は、第1師団(東京)、第2師団(仙台)、第3師団(名古屋)、第4師団(大阪)、第5師団(広島)、第6師団(熊本)。
6月 陸、ドイツより帰国 【陸】帰国 滞在は1年程と短いが、大きな影響を受ける。帰国後は厳格・荘厳とした雰囲気をかもし出す様になる。ズォォン化のはじまり。
7月 海軍大学校場所は築地(海軍兵学校があった場所に作る。昭和7年品川区大崎に移転)。上級将校を養成する。海と大佐も通うを作る
8月 海軍兵学校広島県江田島へ移転
明治22年
(1889年)
2月 大日本帝国憲法発布 国号が大日本帝国に。
7月 呉鎮守府と佐世保鎮守府が開庁
明治23年
(1890年)
3月 陸海軍合同大演習陸海軍はじめての合同演習 【陸・海・大佐】演習参加(愛知にて)
11月 第1回帝国議会立法機関。貴族院と衆議院の両院制。今でいう国会。憲法が出来たので開会(7月に総選挙を行っている)
明治24年
(1891年)
7月 清国の丁汝昌、北洋艦隊清国の艦隊。創設者李鴻章。司令官は丁汝昌を率いて来航 この時「定遠」「鎮遠」という当時最大級の新鋭装甲艦を含む6隻が品川に入港。日本を威嚇する。

日清間で衝突が増えるようになってから、共に海軍力を向上させるが、この時は北洋艦隊の方がいい船を持っているという状態。
明治25年
(1892年)
明治26年
(1893年)
4月 清国を視察4月~7月。地形や軍事力を調査 【陸】清へ 参謀次長と共に清を視察。結果「恐るるに足らず」
5月 海軍軍令部発足
11月 戦時大本営条例を定める
明治27年
(1894年)
2月 甲午農民戦争朝鮮国内で起きた農民の反乱。日本と清が兵を派遣する。日清戦争を誘発することになった
6月 大本営戦時や事変においての最高統帥機関を設置し、朝鮮へ出兵
8月~ 日清戦争朝鮮半島を巡り日本と清が衝突。8月1日宣戦布告 【陸・海・大佐】日清戦争へ 大国・清を相手に一丸となり勝利を収める。

清は日本に負けた事で、国力の弱体化を露呈。次々と列強の侵略を受ける事になる。
明治28年
(1895年)
4月 日清講和条約(下関条約)締結 山口県の下関にて講和交渉。朝鮮の独立、台湾・遼東半島・澎湖諸島の割譲、高額の賠償金、租界での治外法権や、通商条約での不平等条約など。かなり強気の日本側の主張が通り調印。
5月 三国干渉ロシアを中心とした三国(ロシア・フランス・ドイツ)が日本に遼東半島の返還を求める。下関条約が強気すぎて列強に干渉される形により遼東半島を放棄 欧米列強の外圧に屈し、せっかく手に入れた遼東半島を放棄せざるをえなくなった。この事に国内は憤慨し、軍事拡張を進めて行く事になる。

清から得た賠償金は日本の国家予算の2倍以上だったが、陸軍(15.6%)、海軍(46.4%)と6割以上を軍事拡張費に投入。

また、三国干渉に屈した事で朝鮮における日本の威信が低下。変わってロシアが影響力を持ち始める。
6月 台湾総督府設置下関条約で獲た台湾。日本の植民地支配が始まる
明治29年
(1896年)
明治30年
(1897年)
明治31年
(1898年)
1月 元帥府設置陸海軍の特に功のあった大将を元帥とし、天皇の軍事上の最高顧問機関(元帥府)の構成員とする
明治32年
(1899年)
明治33年
(1900年)
5月 軍部大臣現役武官制陸軍大臣・海軍大臣を現役の陸海軍大将・中将に限定した制度。軍の影響が強くなり、軍が政治に対して拒否権を持つようになった成立
6月 義和団事件/北清事変義和団(外国排斥運動をスローガンにした組織)による蜂起とそれに乗っかった清朝が外国に対して宣戦布告。日本を含む8カ国に鎮圧される。結果、列強による清の植民地化に拍車がかかる 【陸】清へ 北清事変が収束すると各国兵を引いたが、ロシアは兵を引かず満州を占領。
明治34年
(1901年)
3月 海軍士官の外国駐在制度を定める
10月 舞鶴鎮守府開庁
11月 八幡製鉄所操業
明治35年
(1902年)
1月 日英同盟南下するロシアに対し、日本とイギリスの利害が一致締結
4月 清とロシア、満州還付条約調印日英同盟の影響を受け、ロシアが段階的に満州から兵を引くという条約 ロシアは条約を反故、満州に居続ける。ロシア南下の脅威に日本反発。
明治36年
(1903年)
8月 ロシアとの交渉(満韓交換論満州におけるロシアの権益を認める代わりに、日本の朝鮮支配を認めてもらう)が決裂 満州を占領するロシアに対し、日本は抗議や交渉を続けてきたがついに決裂。日露戦争に向かう事になる
明治37年
(1904年)
2月~ 日露戦争勃発 【陸・海・大佐】日露戦争へ 大国ロシアを相手に国力の限界を超えながらも一丸となって戦う。 日露戦争では陸海軍合わせて19回の激戦が行われた。翌3月の奉天会戦は日本軍25万、ロシア軍36万7千という、その当時最大規模の大会戦が行われ日本が勝利する。

その後の日本海海戦でも日本は勝利し、これをもって講和交渉に入る事になった。(講和条約を有利にする為、樺太の占拠も行っている)
明治38年
(1905年)
1月 ロシア、血の日曜日事件民衆が皇帝に困窮を訴えるべくデモをしたが、多くの人が軍隊に殺され冬宮前広場は血の海になったという。これによりロシア皇帝に対する崇拝心が薄れ、ロシア革命の引き金となる 日露戦争真っ只中に起こった事件。この後6月にもロシア水兵による反乱がおき、連鎖する国内不穏にロシア政府は戦争継続を断念する。

ロシア国内の不穏な情勢は、日本陸軍のスパイ工作が大きく関係している。陸軍は今でいう何百億とも言われる大金を使い、反政府の革命を裏から支援。国内に不安を抱えさせ、日本との講和交渉に踏み切らせる大きな要因となった。
9月 日露講和条約(ポーツマス条約)戦う余力のない日本はアメリカに講和の斡旋を依頼。アメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、調印する調印 国力を使い果たした日本に対し、本国に余力を残すロシアは強気の姿勢で交渉。会議は難航し、早急に講和を結びたかった日本は、ロシア側の賠償金支払いを放棄。南樺太の割譲というロシア側の妥協案を受けざるを得なかった。

「賠償金がない」という事に日本国内は衝撃を受ける。膨大な人と戦費を費やした割りには、余りにも少ない代償。重税を課せられ苦しい生活をしてきた国民の怒りが爆発するのである。
10月 陸海軍凱旋、横浜沖で凱旋観艦式
明治39年
(1906年)
8月 関東都督府関東州の行政および鉄道の守備を設置
明治40年
(1907年)
11月 日本製鋼所設立日英合弁。北海道室蘭。兵器の国産化を目的とする。設立にあたり海軍から顧問を派遣している
明治41年
(1908年)
4月 陸軍刑法、海軍刑法軍の規則や刑罰公布
明治42年
(1909年)
10月 伊藤博文暗殺
明治43年
(1910年)
8月 韓国併合
10月 朝鮮総督府設置
明治44年
(1911年)
2月 日米通商航海条約関税自主権を回復し、平等な条約内容調印 欧米列強と結んできた不平等条約がついに撤廃。日露戦争の勝利など、日本の国際的地位向上が大きな要因。アメリカを皮切りに、英仏独などとも新条約が結ばれ、欧米列強と対等な立場となった。当時の世界ではとてつもない快挙である。
明治45年
(1912年)
7月 明治天皇崩御

細かい出来事はいっぱいあるんですが、全部書くとよくわからなくなるので抜粋して書いてます。

明治はまさに国づくり。欧米諸国に追いつけ追い越せで必死に走ってきた時代。その結果日露戦争の勝利、不平等条約の撤廃という大きな成果を達成した。