年表 - 幕末(嘉永 ~ 慶応)

幕末編。登場するのは陸・海・大佐のみ。年表のはじまりはペリー来航ですが、すでに陸・海・大佐は生まれております。来航当時が5歳位の見た目年齢かと思われる。慶応4年頃は12歳位。
それと幕末期の大佐の名称ですが、そのまま大佐でいきます。年表の月は旧暦です。

▼年号(西暦) ▼月 ▼できごと ▼キャラの動き ▼補足
嘉永6年
(1853年)
6月 ペリー浦賀に来航 【陸・海・大佐】
黒船を見に行く!
この時は江戸で三人一緒に住んでいたと思われる。それ以前は京都にいたかもしれない。
嘉永7年
/安政元年
(1854年)
1月 ペリー再び!1年後だったはずなのに、半年でやってきたペリー
3月 日米和親条約開国。その後、英・露・蘭等とも和親条約を結ぶ事になる調印
安政2年
(1855年)
10月 長崎海軍伝習所オランダ海軍による伝習。日本海軍史の基点にて伝習開始 【海・大佐】長崎へ 海と大佐は勝海舟と共に長崎へ!陸大泣き☆
安政3年
(1856年)
4月 江戸築地に講武所砲術を中心に剣術・槍術などを学ばせる武芸訓練場を開設 【陸】講武所へ 陸、講武所へ通う為今まで住んでいた家を出る。
安政4年
(1857年)
7月 講武所内に軍艦教授所長崎海軍伝習所の1期生が講師となる。後の軍艦操練所ができる 【海】江戸へ
【大佐】長崎に残る
海、陸の家(その後海の家となる)へ。陸と海がほぼ同じ場所でお勉強することになる。(ただ軍艦教授所が出来た為、講武所が手狭になり移転を余儀なくされるw)

水泳訓練は軍艦教授所で行われるので、海に誘われ陸がやっと水泳訓練をする(それまで水泳訓練は逃げていた)。

大佐は勝海舟と共に長崎に残る。(長崎ではそのままオランダ海軍による伝習が続けられる)
安政5年
(1858年)
6月 日米修好通商条約「外国人犯罪の裁判はアメリカがやる、日本は関税かけられない、他の国と結んだ条約でお得な所はアメリカにも適用される等々…」いわゆる不平等条約調印
安政5年
いずれかの時期
【陸】長崎へ行くことも 講武所ではオランダの本を訳して使っていた為、長崎のオランダ海軍の元でちょっと教えて!っていうのがあったよう。陸、大佐と感動の再会。ちょっと垢抜けた大佐に驚く。
安政6年
(1859年)
3月頃 長崎海軍伝習所に打切り命令。
それに伴い、佐賀藩佐賀藩は唯一開港していた長崎を警備しており、いち早く近代化に着手、強力な軍事力をもつ。特に海軍力が強い。その後、明治維新において大きく貢献した薩長土肥の一つに数えられる、三重津海軍所を作る
【大佐】佐賀藩へ 長崎海軍伝習所が廃止されるが、三重津海軍所では幕府の船を使って伝習を続ける事になり、大佐もそこへ行く事になる。

当時、佐賀藩は科学技術に力を入れ、非常に近代化されていた。その後日本初の西洋式蒸気船を完成させている。ちなみに現在、三重津海軍所は世界文化遺産である。
安政7年
/万延元年
(1860年)
1月 遣米使節日米修好通商条約の批准書の交換をする為アメリカへ
2月 講武所移転江戸神田小川町へ。砲術調練は深川越中島、騎戦訓練は麹町の練馬場 【陸】移転した講武所へ 2月3日稽古開始。新しい講武所へ通う。
万延2年
/文久元年
(1861年)
3月 長崎製鉄所オランダ人を招いて作った。後の三菱重工長崎造船所完成 【大佐】長崎製鉄所に訪れる 大佐は完成前より、ちょくちょくこの製鉄所を訪れている。

この施設は維新後、政府が管理。その後三菱(三菱重工)に払い下げられ、日本海軍の船が多く作られる事になる。民間初の国産戦艦「霧島」をはじめ、戦艦「武蔵」もここで作られる。現在は海上自衛隊の自衛艦も多く作られており、海軍及び海自にとって、非常に重要な場所である。
文久2年
(1862年)
4月 文久の改革軍制改革も行われる 1862年頃には要人の暗殺等が相次ぎ、京都はもとより、江戸も非常に物騒になってくる。
8月 生麦事件薩摩藩士によってイギリス人が殺傷される事件。後に薩英戦争に繋がる
9月 榎本武揚のオランダ留学 【大佐】オランダへ 大佐、榎本武揚のオランダ留学へ随行
文久3年
(1863年)
7月 薩英戦争生麦事件に端を発した薩摩とイギリスの戦争。これを期に薩摩とイギリスが近づくことになる
文久4年
/元治元年
(1864年)
5月 神戸海軍操練所が開講「これからの日本には海軍力が必要であり、幕臣だけでなく広く人材を集め教育しなければならない」という勝海舟の考えにより実現した操練所。坂本龍馬、陸奥宗光、伊東祐亨(日清戦争時の連合艦隊司令長官)等、そうそうたる顔ぶれを輩出 【海】神戸へ 勝海舟に呼ばれ海軍操練所へ。修学の為もあるが、大阪湾の重要性を認識させる事と、幕臣以外の人材に触れさせる為。近くにあった勝塾(勝海舟が開いた私塾)にも足を運ぶ。海、坂本龍馬に会う!
3月~ 天狗党の乱水戸藩の尊王攘夷派 (天狗党) が挙兵した事件 【陸・海】天狗党の乱討伐に随行 幕府陸軍・幕府海軍の初陣(海軍は艦砲)。よって陸・海共に初陣。自ら手を下すことはないけど、戦を間近で見ることになる。

実質討伐は7月頃から10月位。最終的に投降した天狗党に対して、352人の斬刑。悲劇的にして血なまぐさい事件。安政の大獄の死罪8名に比べるとその大きさが分かる。

その後江戸に戻る。9月には神戸海軍操練所に閉鎖命令(反幕府派のたまり場になっていると幕府から疑われる)がでているので海もそのまま江戸へ。

元治2年
/慶応元年
(1865)
2月 横浜仏語伝習所フランスによる陸軍の伝習と横須賀製鉄所の為に開校ができる 【陸】横浜へ 陸、校舎内の宿舎に移り、フランス人教師によるフランス語漬けの日々をおくる。陸軍幼年学校のような性質があったとも言われている(というか幼年学校のもと)。また横須賀製鉄所(造船所)の事業をスムーズにする為の要素もあるので、海も来たことがあるかもしれない。
9月 横須賀製鉄所フランスの全面協力のもと建設着工 フランス人技師を招いて作られる事になった製鉄所(造船所)。海、着工式に参加。その後もちょくちょく足を運ぶ。8月には同じフランス人技師によって横浜製鉄所(船修理用)が出来ており、こっちにも行ってる。

横須賀製鉄所はその後横須賀造船所と名前を変え、明治36年には『横須賀海軍工廠』になる。終戦まで多くの艦艇がここで生まれる。他の工廠に比べ建設された時期が非常に早い(明治の途中まで海軍の中で唯一の造船所)。
慶応2年
(1866)
1月 フランス海軍による伝習公式な契約の伝習ではないが、急遽行われる。期間は3ヶ月程 【海】横浜へ
6月 第二次長州征討 【陸・海】長州征討に随行 この戦において、大村益次郎、高杉晋作らをはじめとする英傑達とあいまみえる事になる。

長州側の恭順で戦闘なく終わった一次と違い、長州藩内は倒幕派に取って代わられており武力衝突が起こる。士気の高い長州に寄せ集めの幕府軍は敗北する。これにより幕府の弱体化があきらかとなる。
12月 フランス軍事顧問団士官6名を含む19名。その後の陸軍に大きな影響を与えるによる訓練開始 【陸】同横浜の兵営へ 陸軍では初めて外国人を招いて行われる、本格的な軍事教導により陸やる気MAX。
(以前横浜に駐在しているイギリス軍によって軽く伝習が行われる事はあったらしい)
12月 慶応の改革第二次長州征討での敗北が堪えて改革。軍制改革も行われる
慶応3年
(1867)
4月 榎本武揚帰国、横浜港に帰着 【大佐】帰国(横浜) 大佐、幕府がオランダに発注していた当時最新鋭の開陽丸で帰国。同じく横浜にいた陸、そして勝海舟らと共に来た海に出迎えられ、久々に三人が揃う。大佐はしばし横浜に滞在後大阪へ。
5月 フランス軍事顧問団・伝習隊移転横浜の訓練所が狭かった 【陸】江戸へ
10月 大政奉還幕府が政治を朝廷に返すと宣言 幕府側は、朝廷に政治が出来ないという思惑もあり、そのまま政治の中心に居続けられるという考えがあった。
11月 第一次イギリス軍事顧問団かねてより幕府がイギリスに正式依頼をしていた軍事顧問団による伝習がはじまる 【海・大佐】海軍伝習所(旧軍艦操練所)内の生徒寄宿所へ
12月 王政復古の大号令政治を朝廷がやると宣言。幕府側の目論見は、倒幕をしたい薩長に阻まれる 【陸・海】朝廷側へ
【大佐】幕府に残る
政治が朝廷に移る事となり、陸・海は朝廷のもとへ。大佐は残る事になった。

大佐が残った理由としては、兵力がいまだ幕府軍の方が多く、海軍力に至っては新鋭艦を擁する幕府の方が圧倒的に強いから。幕府が勝利する事により、再び政権を取ると考え、むしろ二人こそ危ないと引き止める。

しかし二人は江戸を抜け出し京へ。
慶応4年
/明治元年
(1868)
1月 鳥羽・伏見の戦い 【陸・海】鳥羽・伏見の戦いへ随行
1月 諸外国、局外中立どっちの軍勢にも手を貸さないよ。中立だからねっていう宣言。だが英仏にかぎっては中立かどうか怪しいを宣言 日本の近代化には外国が大きく絡んでいる。

特に大きな影響を与えていたのが、英仏で朝廷(新政府)軍vs幕府軍はイギリスvsフランスの構図といえる。

フランスは幕府に援助をする姿勢があったが、イギリスが列国公使と図り中立宣言をする。これにより、フランスは幕府に援助ができなくなった。(ただ一部のフランス軍事顧問がクビ覚悟で戊辰戦争に参加する、胸熱である)
2月 朝廷(新政府)軍大総督、有栖川熾仁親王。薩長を中心に22の藩兵約5万、東征 【陸・海】朝廷(新政府)軍に随行 江戸城総攻撃を3月15日と決め、東海道・東山道を経て江戸に迫る。
3月 五箇条の誓文新政府の基本方針を神に誓う 新政府はできたが、幕藩体制が長すぎて疑心暗鬼な大名や民衆に向けて新政府の立場を表明する。

ただ民衆はかねてより物価変動に苦しみ、治安も酷い状態で、新政府・幕府に対して思いっきり嫌気がさしている。そして一揆がおきまくるのである。
3月 勝海舟と西郷隆盛の会談 会談は13、14日と行われ、総攻撃が中止になる。西郷隆盛は江戸城攻撃に強硬姿勢だったが、イギリス公使のパークスに反対される。新政府にとってイギリスの協力は必要なので考え直す。

陸・海、江戸が戦火を免れたので、内心ほっとしている。
4月 江戸城無血開城 【大佐】朝廷(新政府)軍へ帰順 大佐、陸・海と再会。

すでに新政府が新しい体制を作りだし、大佐は幕府による復権が不可能と悟る。そしてこれ以降は徳川家の処遇に関する戦いであり、国軍の象徴としてはこの時点で新政府に帰順する事になった。

ただ幕府陸軍は既に江戸を離れおり、また幕府海軍も兵力を温存させている。新政府に恭順できない幕府側勢力と新政府軍との戦いがここから始まる(戊辰戦争)。

※実際使われた階級で言えば「大佐」は「頭」になりますが、高野長英が書いたという「歩操規範」なる書物に「大佐、中佐…」等、その後使われる階級の名称が既に載っていたらしいので幕末でも「大佐」です。
高野長英は幕政批判をして投獄された人物で、幕府がその名称を用いなかったと勝手に解釈。本自体は1849年より前に書かれていると思われる。

ペリー来航により急速に近代化への道を歩みだす。外国に大きな影響を受けながら、主に海軍力を高める事からはじまり、幕府においては幕府陸軍・幕府海軍が生まれた。また諸藩も独自に近代化を模索する等、軍の姿が徐々に変わっていった。

しかし西洋諸国に習う一方、攘夷(外国排除)も叫ばれ、国内が混乱。最終的には幕府が終わり、明治維新となる。

「王政復古の大号令」時の行動について…。陸・海・大佐は国軍の象徴なので、政権交代がなされれば、そのもとに行く事になります。武士は主家に忠義を尽くすのが筋ですが、幕臣ではないので、徳川の下を離れる事になるわけです。そういうスイッチが入っちゃうのです。行動が分かれたのは、そこまで置かれた環境の違いによる考え方の相違。